10月7日にイスラーム原理主義の武装組織ハマスがイスラエルを攻撃したが、この事件の半年ほど前(2023年4月30日)、パレスチナ自治政府のトップであるアッバース大統領(PLO:パレスチナ解放機構議長)がパレスチナ民族評議会で、「ヨーロッパのユダヤ人は古代イスラエル人の子孫ではなく、トルコ系ハザール人であり、イスラエルの地とは無縁だ」などと述べた。この動画が拡散したことで、アッバースは欧米から「反ユダヤ主義」との批判を受けた。

 ところで、「ハザール人」とはいったい何者なのだろうか? アッバースの発言がなぜ「反ユダヤ主義」になるのかを理解するためにも、今回はその数奇な歴史を紹介してみたい。

「ヨーロッパのユダヤ人」がハザール起源説は誤りだった

 ハザール(カザール:Khazars/Kazar)は7世紀から10世紀にかけて黒海北部からカスピ海、コーカサスにかけて繁栄した遊牧民族の国家だ。自らの手で歴史書を残すことはなかったものの、同時代のイスラームやヴィザンチン(東ローマ)の資料にその存在が繰り返し出てくる。ハザールをとりわけ有名にしたのは、8世紀から9世紀初頭にユダヤ教を国教として採用したとの複数の歴史資料があることだ。

 ハザール人はテュリュク(トルコ)系の遊牧民で、6世紀初頭には黒海とカスピ海のあいだのステップ地方で大きな勢力をもつようになった。カガンと呼ばれる君主に率いられたハザールは、南からのイスラームの圧迫を受けたことで、西のヴィザンチン帝国と緊密な関係を維持するようになったようだ。

 7世紀末、鼻を削がれてクリミアに追放されたヴィザンチンの皇帝ユスティニアヌス二世はハザールのカガンの妹と結婚し、その武力によって復位に成功する。ハザール人である皇帝の妻はテオドラと名をあらため、宮廷で大きな影響力をもつようになった。

 733年、ヴィザンチンの皇帝レオ三世はイスラーム勢力を抑え込むため、息子のコンスタンティノス六世の妻にハザールのカガンの娘を迎えた。2人のあいだに生まれた子どもはのちにレオ四世として即位し、「ハザールのレオ」と呼ばれた。

 いずれも史実として認められているが、これほどの影響力をもったハザールという国について論じられることはほとんどない。その理由のひとつは、ハザールが「ユダヤ国家」だとすると、政治的にきわめてやっかいな問題を引き起こすからだろう。

 アッバースが「ヨーロッパのユダヤ人」といったのはドイツ・東欧諸国で暮らしていたアシュケナージム(よく使われる「アシュケナージ」は単数形)のことで、これまでその起源は謎とされていた。ここから、「ハザール滅亡後に、黒海沿岸にいたユダヤ教徒たちがロシア(ルーシ)やモンゴルに追われて西へと移動し、東欧に定住したのがアシュケナージムだ」との説が唱えられるようになった。

ヨーロッパのユダヤ人は古代イスラエル人の子孫ではなく、トルコ系ハザール人?「ハザール人」とはいったい何者なのか?嘆きの壁で祈るユダヤ教徒 Photo :wonderland / PIXTA(ピクスタ)

 これがもし正しいなら、イスラエルの政治・経済の中枢を構成する「ヨーロッパのユダヤ人(アシュケナージム)」は、中東起源ではないのだから、イスラエル/パレスチナの地への「正当な歴史的権利」をもたないことになる。これが、アッバースの発言が「反ユダヤ主義」とされる理由だ。

 こうして歴史家はハザールに触れることを避けるようになったのだろうが、これではますます「陰謀論」の温床になるだけだ。そこでこの「謎の国」の歴史を述べる前に、2つのことを確認しておきたい。

 まず、アシュケナージムのハザール起源説は、もともとは「反ユダヤ主義」ではなく、ユダヤ人自身のルーツ探しの過程で唱えられるようになったこと。それがイスラエル建国によって、反ユダヤ主義のプロパガンダに使われることになった。

 もうひとつは、近年の遺伝人類学の調査の結果、アシュケナージムが遺伝的に中東とつながっていることが示され、ハザール起源説が説得力を失ったことだ。

ユダヤ人の歴史学者によるハザール起源説とは?

 イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』(高橋武智監訳、佐々木康之・木村高子訳、ちくま学芸文庫)で、歴史学によるハザールの検証は19世紀にロシア・東欧の研究者が先鞭をつけ、それを受けてユダヤ人の歴史学者のなかにも、積極的にハザール起源説を取り上げる者が現われたと述べている。

 キーウ(キエフ)生まれの歴史家アブラハム・ポラックは1951年に『ハザリア――ヨーロッパにおけるユダヤ人王国の歴史』を著し、「このイスラエルの歴史学者は、東欧のユダヤ人の大半が、ハザール帝国が権力を行使していた空間の出身であることを(略)断固として確言していた」とされる。

 だがその後、ハザール起源説が「イスラエル国家の存在する権利という普遍的大義への問い直しにまで及びかねない」と気づくと、イスラエルではこの説に触れることがタブーとなり、「沈黙の時代」が訪れる。それと同時期にスターリン時代のソ連においても、「東洋の奇妙なユダヤ人」の存在が「母なる祖国ロシア」と矛盾しているとされ、ハザールの歴史を語った者が「ブルジョワ学者」のレッテルを貼られて弾圧される「否認の時代」が始まった。

 この「沈黙」と「否認」を打ち破ったのがアーサー・ケストラーによる1976年の『The Thirteenth Tribe; The Khazar Empire and Its Heritage(第十三支族 ハザール帝国とその遺産)』だ。ケストラーは、ユダヤの民は十二支族からなるとの伝承を踏まえ、ハザールのユダヤ人は13番目の支族だと述べて(翻訳出版が認められなかったイスラエルを除いて)大きな反響を巻き起こした。

 アーサー・ケストラーは1905年にハンガリー(ブダペスト)で生まれたユダヤ人(アシュケナージ)で、20代でシオニズム運動に傾倒してパレスチナに入植し、その後マルクス主義と出合ってドイツ共産党に入党、一時はソビエトに滞在したが、全体主義的な独裁体制に絶望してフランスに亡命し、ジャーナリストとしてスペイン内戦を取材した。

 ナチスがフランスを占領するとヴィシー政権下で南仏の収容所に送られたものの、外国人部隊に配属されてイギリスに逃亡、イギリス軍に参加してドイツと戦った。戦後はスターリン体制を批判し、1956年のハンガリー動乱でも積極的に活動したが、60年代になると徐々に政治から距離を置くようになり、自然科学に関心が移っていく。

 1967年の『The Ghost in the Machine(機械の中の幽霊)』などで科学の還元主義を批判したケストラーは、部分を越えた全体としての「ホロン」を唱えて、ホーリズムやネットワーク論の先鞭をつけた。日本では83年に『ホロン革命』が先行して翻訳紹介され(『機械の中の幽霊』の翻訳は95年)、ニューサイエンスブームの火付け役になった(押井守の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は“The Ghost in the Machine”の影響を受けている)。

 1983年3月、ケストラーは強度のうつ病から「自らの意志によってそれが可能であるうちに自らを苦痛から救出する」との遺書を残し、睡眠薬を用いて妻とともに自殺した。

『第十三支族』は、ケストラーの波乱万丈の人生の晩年に書かれたものだが、彼自身がユダヤ人であることからわかるように、謎に満ちたハザールの歴史を検証し、アシュケナージムのルーツを探るのが執筆の目的だった。

 ケストラーはこの著作が「イスラエルという国家の存在する権利の否定に結びつけられてしまうという危険性」を懸念し、「イスラエル国家の存在権は(アブラハムが神と交わした神話的契約ではなく)国際法に基づいているのである」と強調している。

 さらにケストラーは、反ユダヤ主義とは(古代中東でセム系の言語を話していた)セム民族に対する民族差別だが、アシュケナージムが「アブラハム、イサク、ヤコブの種より、フン人、ウイグル人、マジャール人により近いということ」になれば、「アンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)」という言葉は空しく、「それは殺戮者と犠牲者双方の誤解に基づいて生まれたことになる」として、ハザール王国の物語は「歴史の最も残酷ないたずら」とも書いている。

 ケストラーの『第十三支族』は、日本においては、宇野正美の翻訳で『ユダヤ人とは誰か 第十三支族・カザール王国の謎』として1990年に出版されたが、宇野は86年にベストセラーとなった『ユダヤが解ると世界が見えてくる』などで、ユダヤ人が世界征服を計画しているという偽書「シオン賢者の議定書」を引用したことで、「日本で反ユダヤ主義が台頭している」としてニューヨーク・タイムズなどから批判された。

 この事件を受けて宇野は「反シオニスト」となり、ユダヤ陰謀論やホロコースト否定に傾斜し、やがて「古代ユダヤ人が日本に来ていた」と主張するようになる。『ユダヤ人とは誰か』の翻訳出版はこの時期のもので、「訳者序文」で「『アシュケナージはカザール人』はユダヤ社会の常識」だとして、「アシュケナージ・ユダヤ人、すなわちもとは中央アジアにいたカザール人がなぜそのように(自分達の先祖がこの地に住んでいたから自分達もここに住む権利があると)主張するのか」などと書いている。これはケストラーが危惧していた反ユダヤ主義そのもので、本書は真摯な歴史研究であるにもかかわらず、日本においては(残念ながら)「陰謀本」の類と見なされることになった。