演出プランを突っぱねて
こだわったガチンコ勝負

M-1をつくった元吉本社員の谷良一氏M-1をつくった元吉本社員の谷良一氏

 このように、国内最大のお笑いコンテストを創設した谷氏だが、成功の秘訣(ひけつ)は何だったのだろうか。

「正直、すべて見通しを立てて、計画的にやっていたというわけでは決してありません。これがない、あれがないというふうに、次から次に発生する問題を解決していったのです。オートバックスの住野公一社長との出会いも、本当に運が良かったのだと思います。ただ、強いて成功の秘訣を言えば、『漫才の復活』という志を曲げなかったことでしょうか。そういう大目標があったことで、他にはないコンセプトの大会になったし、我々の熱量もスポンサーやテレビ局に伝わった結果なのではないかなと感じています」

 スポンサーになったのはオートバックスだったが、当時は住野社長以外、同社の役員・社員は全員がスポンサーになることに反対していたのだそう。

「住野社長は社員に厳しく接するのではなく、優しさや笑顔を重視するような『笑いの経営』を目指しており、吉本興業やお笑いの分野に興味を持っていました。そのため、全社内の反対を押し切って、8000万円近くの予算を出してくれたんです」

 谷氏の言う熱意が住野社長にも伝わったのだろう。

 また、テレビ局探しにおいて、M-1のコンセプトが決してぶれることがなかったことを示すエピソードがある。

 あるテレビ局に話を持ちかけた際、「若手漫才師のガチンコ勝負なんて視聴率が取れないから衝撃的なことをしないといけない。例えば、M-1出場予定の芸人が決勝当日、『大会会場に行くか、重病の母親が大手術をしている病院に行くかで悩む』みたいな展開と演出が必要。そのために親が病気になっている芸人を見つけて決勝に残したらどうか」と構成作家に言われたという。

「そのような演出プランに従えば、すんなり放送は決まったかもしれません。しかし、それは到底ガチンコの勝負とは言えませんし、そんな形にしたらM-1は一回きりで終わると思いました。我々が目指しているのは、漫才の復活であり、そうした瞬間風速的なテレビ番組を作ろうとしていたわけではありませんでしたから。ただ、そうこうしているうちに時間がたってしまい、放送局が決まらないまま、記者発表は目前に迫っていました。そして、記者発表の一週間前、朝日放送の和田省一執行役員(当時)が『谷さんが、一生懸命説明しているうちに、漫才番組を大阪の局がやらなくてどうするんだと思って』と、特番の枠をくれたんです」