「すべての科学研究は真実である」と考えるのは、あまりに無邪気だ――。
科学の「再現性の危機」をご存じだろうか。心理学、医学、経済学など幅広いジャンルで、過去の研究の再現に失敗する事例が多数報告されているのだ。
鉄壁の事実を報告したはずの「科学」が、一体なぜミスを犯すのか?
そんな科学の不正・怠慢・バイアス・誇張が生じるしくみを多数の実例とともに解説しているのが、話題の新刊『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』だ。
単なる科学批判ではなく、「科学の原則に沿って軌道修正する」ことを提唱する本書。
その中から今回は、論文にとって極めて不名誉な結末『撤回』に深く関わる、“ある日本人”にまつわる内容の一部を抜粋・編集して紹介する。
論文の撤回は「科学の死刑判決」
さまざまな種類がある科学的不正行為は、いったいどこまで蔓延しているのかを考えていこう。
この問題の規模を推定する1つの方法は、撤回された論文の数に注目することだ。撤回は論文にとって究極の不名誉な結末であり、「科学の死刑判決」とさえ言われる。
死刑判決を受けて撤回された研究は、ある種の地獄を迎える。
撤回された論文は、単純に削除されるわけではない。すでに多くの研究で引用されている場合は特に、機械的な削除は混乱を招く。
そこで、掲載された学術誌のサイトに永久的に保存され、もはや正当なものと見なされていないことが明示される。
多くの場合、ページ全体に赤い太字で斜めに「RETRACTED(撤回)」と記される。
1万8000件以上が掲載される「論文撤回データベース」
撤回に関する情報収集には、「リトラクション・ウォッチ(撤回監視)」というサイトが有用だ。
論文が撤回されるたびに情報を記録して、学術誌や著者に問い合わせてコメントを求め、問題点を分析している。
サイトを運営するアイヴァン・オランスキーとアダム・マーカスは2018年に、1970年代以降に撤回された1万8000本以上の科学文献を登録したデータベースを立ち上げた。
「撤回理由」の欄には、「利害の対立」「虚偽の著者」「著者の不正行為」「資料の破壊行為」「刑事訴訟手続き」など、論文にまつわる熾烈なストーリーが垣間見える。
不正なのに「信じられないほど洗練されている」
撤回のヘビー級チャンピオンは、文句なしで日本の麻酔科医、藤井善隆だ。存在しない薬の臨床試験のデータを創作するなど、撤回された論文の数は何と183本。2000年に『アネスセジア&アナルジージア』に寄稿された書簡には、藤井が報告したデータは「信じられないほど洗練されている!」と書かれていた。
「リトラクション・ウォッチ」の管理人が述べているとおり、これは褒め言葉ではない。書簡の筆者たちは、藤井の臨床試験で副作用として頭痛を報告した被験者の数が、彼がおこなった13件の研究の異なるグループでまったく同じで、さらに8件でもほぼ同じであることに気がついたのだ。現実のデータと考えるにはあまりに均一だ。
10年以上潜伏した「捏造・不正・虚偽」
しかし、それから10年以上、何も起こらず、藤井は麻酔学の複数の権威ある学術誌に偽の論文を発表し続けた。
2012年に別の分析によって藤井のデータが到底あり得ないものであることがわかり、ようやく正式な調査がおこなわれ、彼のキャリアは終わった。
調査委員会は172本の論文でデータの捏造を確認しただけでなく(その後さらに発見されて、藤井は撤回された論文件数で世界トップになった)、藤井が発表した論文のうち不正がなかったと判断したものを挙げた。その数は3本だった。
(本稿は、『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』の一部を抜粋・編集したものです)