「綺麗……」
そう言った瞬間、こらえていたものが溢れ出しました。喉の奥から塊のようなやりきれなさがぐっと迫り上がって噴き出しました。涙があとからあとから流れ落ちました。泣いちゃいけない、泣いちゃいけない、と心で言い聞かせながら、それでも止めることができません。
世の中は私たち家族の苦しみを置き去りに、何事もなかったかのように流れていきます。
健康であることを当たり前のようにして、ただ夢を追いかけて笑ったり怒ったりしながら過ごしてきた毎日から、こんな風に一気に変わってしまうことがあるのか。ついこの間までいた世界と、いま自分がいる世界があまりにも違いすぎて、その絶望にこの先、耐えられるか分からない……。
いったいどうしたらいいのだろう。
中井由梨子 著
白く光る桜並木を見つめながら、ただ涙が流れるに任せていました。泣くだけ泣いてしまうと、少しだけ落ち着いてきて、周囲にもちらほらと人影があることが目に入ってきました。
車椅子に座った入院患者らしき人、その家族の姿も見えます。彼らも言葉少なに、大阪の夜景を眺めています。あの人たちも今の私のように、世の中から取り残されたように感じているのだろうか。眼下に広がる“普通の生活”を、遠く、愛おしく感じているのだろうか。
たしかに、病気になることは苦しい。けれどもっと苦しいのは、これまで当たり前にできたことができなくなることなんじゃないだろうか。好きなことを取り上げられ、生きる意味を見失うことなんじゃないだろうか。
だとすれば、今私のやるべきことは、暗闇を彷徨う慎太郎に光を見せてやることだ。それがこの子を預かった使命なのかもしれない。
慎太郎にこの夜景を見せよう。必ず見せよう。それまでは絶対に泣くまい。もし、泣きそうになったら、笑ってやろう。