世界1200都市を訪れ、1万冊超を読破した“現代の知の巨人”、稀代の読書家として知られる出口治明APU(立命館アジア太平洋大学)前学長。世界史を背骨に日本人が最も苦手とする「哲学と宗教」の全史を初めて体系的に解説した『哲学と宗教全史』が「ビジネス書大賞2020」特別賞(ビジネス教養部門)を受賞。宮部みゆき氏が「本書を読まなくても単位を落とすことはありませんが、よりよく生きるために必要な大切なものを落とす可能性はあります」と評する本書を抜粋しながら、哲学と宗教のツボについて語ってもらおう。
シンギュラリティについて
立命館アジア太平洋大学(APU)前学長
1948年、三重県美杉村生まれ。京都大学法学部を卒業後、1972年、日本生命保険相互会社入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年に退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年4月、生命保険業免許取得に伴いライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年、上場。社長、会長を10年務めた後、2018年より現職。訪れた世界の都市は1200以上、読んだ本は1万冊超。歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では世界史の講義を受け持った。
おもな著書に『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『仕事に効く教養としての「世界史」I・II』(祥伝社)、『全世界史(上)(下)』『「働き方」の教科書』(以上、新潮社)、『人生を面白くする 本物の教養』(幻冬舎新書)、『人類5000年史I・II』(ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義 古代篇、中世篇』(文藝春秋)など多数。
2005年にアメリカの未来学者レイ・カーツワイルは、『ポスト・ヒューマン誕生──コンピュータが人類の知性を超えるとき』(井上健監訳、小野木明恵・野中香方子・福田実共訳、NHK出版、原題 The Singularity Is Near)を刊行しました。
シンギュラリティには「単数であること、異常性」などといった意味がありますが、カーツワイルは人工知能(AI)が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)の意味でこの言葉を使用しています。
そして彼は2045年には、シンギュラリティの時代がくると予言しました。
シンギュラリティの到来については、それを楽観視する見方と悲観視する見方があります。
AIとは何か?
僕は自動車と同じであると思います。
人間が走る能力には限界があります。
そこで自動車という地上を高速で走る機械を発明しました。
けれど、ウサイン・ボルトは決して自動車と競走しようとは思わないでしょう。
競争は人間同士の能力を競うからこそ意味があるのです。
自動車は仕事やデートに使うものです。
もちろん酔っ払い運転をすれば人を殺します。
しかし上手に使えば便利なツールです。
ですから自動運転まで登場しようとしているのです。
同様な理屈は飛行機にも当てはまります。
AIとは何か
それでは、AIとは何でしょうか。
AIは計算能力という面で、人間の能力を補うために開発されました。
計算とは計り数えることです。
AIは、その計り数える対応量とスピードが、人間の脳よりもはるかに優れている機械です。
人間は、AIを自動車を暴走させるように破壊的な目的でも使用できます。
コンピュータの高度な計算能力が開発されたのは、ミサイルが敵国の首都を確実に破壊できるルートとその確率の計算を、可能にすることが大きな目的でもあったからです。
しかし、AIそのものが人類の知能を超えるというシンギュラリティの発想には、僕は同意することができません。
なぜなら、人間にとって脳はまだまだ未知の領域が多く、脳の活動についてはほとんど何もわかっていないからです。
わかっていない脳の仕組みをAIに置き換えることはかなり難しいと僕は思うのです。
一方で、人間の行動パターンを無限にAIにインプットしていけば、脳の活動も解明できるという意見もありますが。このあたりはとても難しい問題です。
現時点で僕は、AIは自動車と同じように、機械として利用すればそれでいいのではないかと思っています。
宇宙飛行士は宇宙で何を思ったのか
哲学者と呼ばれた人たちは、さまざまな歴史の局面に登場して、世界とは何か、人間の認識とは何か、人間とは何か、生きるとは何かなどを懸命に考えては、その果実を論理化してきました。
それに対して、次世代の哲学者は反論したり修正したりしながら、巨人の肩に乗って遠方を見るように、一歩一歩と哲学の道を深め、人智を高めてきました。
また、その一方で自然科学の発達が宇宙や地球や人間について、多くのことを解明しました。
さらに脳の科学的な分析や心理学の発達が、人間の脳の働きや認識する能力についても、多くの科学的な解答を導き出してきました。
けれども人間はいろいろなことがわかってきても、相変わらず失恋したり殴り合いをしたり、数千年以前と同様の人生をおくっています。
そういう普通の人々にとって、地球の寿命がわかり人類の誕生と滅亡に至る過程までわかってしまったことは、果たして幸福なのでしょうか。
不幸なのでしょうか。
人類が宇宙に飛行し、月面にも着陸する時代です。
「地球は青かった」というユーリイ・ガガーリンの言葉は、人類が初めて自分の星を宇宙から見て発した感慨です。
それから多くの人々が宇宙に行きました。
注目したいことが一つあります。
アメリカの宇宙飛行士の中で、地球に帰還した後に、宗教の道に入る人が少なからず存在することです。
宇宙飛行士は、自分の生まれた地球を宇宙から眺めました。
宇宙とは中世までは神の領域の世界でした。
その宇宙から自分が生まれ育ってきた青い星を遠望することは、人間に何を考えさせるのか。
それは人それぞれだとは思います。
けれども多かれ少なかれ、生きるということについて思いを巡らすことになると思うのです。
そして万が一にも、宇宙ステーションが故障すれば、自分自身が星のかけらに還ってしまう環境にいることも、肌身に感じるのではないでしょうか。
宇宙飛行士の中からもう一度、神について考えようとする人が出てくるのは、必然的なようにも思われます。
AIの発達も含め、文明の最先端に位置する国はアメリカです。
そのアメリカでヨーガ(瑜伽(ゆが))の見直しも含めて、たいへん多くの新興宗教が生まれています。それはなぜなのでしょうか。
次のようなことを考えてみました。
世界とは? 人間とは? そのようなことを一所懸命に考えていた時代に、天国と地獄が生まれました。
でも今は天国と地獄の代わりに、星のかけらから生まれ、地球の水が涸(か)れはてたときに人類は必ず絶滅する、という知見があります。
どちらのほうが楽しいか、と問うのはほとんど無意味なことです。
それは人間の脳みそと人工知能と、どちらを採るかと問うような技術論になっているからです。
どちらの説を採っても、等身大の人間が生きて病気になって老いて死んでいく、そのような事実については何も解決してくれないのです。
宇宙飛行士が宗教の扉を叩き、最先端の文明国で新興宗教が急増しているのは、はるかな巨人の高さにまで大きく成長した科学や哲学とは無縁に生きてきた普通の人たちの、生きる支えを探すための正直で切実な行動ではないのでしょうか。
それでも人間は生きる知恵を探す
「本質主義」という考え方があります。
すべての事物には変化しない核心部分である本質が存在する、という考え方です。
超自然的な原理の存在を認める立場です。
プラトンのイデア論も本質主義的な考え方です。
そしてこの考え方は、構造主義が強く否定している思想です。
ところが、構造主義と本質主義の間に、本当の学問的な意味での決着はまだついていません。
決着がつけにくいのです。
本質主義的な立場から、オーストリアの教育家であり神秘思想家でもあったルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、人間の霊的な能力の存在を認めたうえで、独自の教育理論を確立しました。
そしてその理論により、初等・中等および職業教育を行う総合学校を設立しました。
その学校は今日でも、世界に900校以上存在しています。
また、人間が本来持っている才能を子どもたちから引き出そうとして、シュタイナーほど特殊な方法ではなくても、数多くの教育者がさまざまに工夫し努力している現実が存在します。
人間の秘められた才能であるとか、世界が本来持っている本質的な価値であるとか、それらの存在を密かに認め、それを具体化しようとする努力は、今も世界のさまざまな分野で行われているのです。
すでに自然科学も脳科学も、そして構造主義の論理も、人間の意識は自分たちの存在する社会のコピーであって、自由な人間の意志など存在しないと断言している時代です。
それでも多くの人々は密かにつぶやいているのだと思います。
「そんなことは信じたくないよ」
刑法は、今でも過失と故意の2つに犯罪を分けて、刑罰の基準を定めています。
しかし、人間の主体的な自由意志の存在は、ありえないと考えられている時代です。
それでも刑法では「過(あやま)って」とか「意図的に」とか、犯罪行為を自由意志の存在を前提に峻別するという虚構のうえに、その体系を構築しています。
それは自由意志の存在を認めない場合に、犯罪をいかに裁けばいいのか、その知恵がまだつくれないからだと思います。
人間が自由意志を持っていると考えたほうがわかりやすいからでもあります。
結局、現在の人間社会は構造主義や自然科学、そして脳科学が到達した人間存在についての真実よりも、昔から主流であった本質主義的な概念、平たく言えば日常的な概念を上手に利用して虚構に立脚したうえで社会の秩序を保っています。
それは人間の生きる知恵なのだと思います。
哲学も宗教も、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発したといえなくもありません。
生きていくための知恵とは、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえます。
不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、人間は常に病気や老化や死と向き合って生きています。
これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。
このことが数千年の歴史を通じて、いつも人間の眼前にありました。
ここ数年、ニーチェの哲学に関する本が世界的に人気を集めているといわれています。
ニーチェは「神は死んだ」と断言したうえで、それでも強い意志で生きる力が人間には備わっているのだと考え、「超人」の思想を構築しました。
ニーチェの思想と似たような考え方は昔にもありました。
ストア派の哲学です。
僕は個人的にはずっとストア派の考え方に憧れてきました。
ニーチェの哲学とストア派の哲学に共通していることは、自らの運命を受け入れ、そのうえで積極的に力強く生きるという姿勢です。
今、ニーチェに関心を持つ人々は、たとえ人間は地球の水が絶えるのと一緒に死滅するとしても、それでも生を享けた自分は、運命を積極的に受け入れて生き続けるよ、と考える人だと思います。
振り返ってみると、神の存在を考え出した人間が、やがて神に支配されるようになり、次に神の手からもう一度人間の自由を取り戻したところ、その次には自らが進歩させた科学に左右される時代を迎えています。
それでもこの時代に、人間が招き入れた科学的で冷厳な運命を受け止め、それを受け入れてなおかつ「積極的にがんばるぞ」と考える人たちが少なからず存在しているのです。
そのような意志や意欲ある人間の存在が、巨人の肩の上に21世紀の新しい時代を見通せる哲学や思想を生み出してくれるのかもしれません。
僕たちは今、次代の哲学や宗教の地平線の前に立っているのかな、と考えています。
僕は子どもの頃から本の虫でしたが、哲学書を本格的に読み始めたのは大学に入ってからでした。
高校時代にすでにマルクスやレーニンを読んでいた都会出身のクラスメートに刺激されたのです。
最初に手に取ったのがマルクスの『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)でした。
その後、マルクスを読みあさるうちに、ヘーゲルに手が伸び、カントに至り、最終的にはプラトンにまで行き着きました。
折しも中央公論社の『世界の名著』が刊行されていた時期でした。
『世界の名著』と僕が大学に入学した年に刊行が開始された『岩波講座「哲学」』(第2次、全18巻)や岩波文庫には本当にお世話になりました。
本書は、その頃に僕が腹落ちした哲学や宗教の歴史を、記憶をたどりながらまとめたものです。
忙しい毎日をおくっているビジネスパーソンの皆さんに、少しでも哲学や宗教について興味を持ってほしいと考えて、枝葉を切り捨てて(勘違いして幹を切り捨てているかもしれませんが)できるだけシンプルにわかりやすく書いたつもりです。
社会人になってからは、学生時代のようにそれほど哲学書を紐解くことはなかったので、哲学や宗教の知見がどこまでアップデートされているか自信はありません。
(本原稿は、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)