ユダヤ人6000人を救った「命のビザ」で知られる杉原千畝は、戦後、モスクワで働いていた。杉原の立ち合いのもとで結婚した日本人男性とロシア人女性の間に生まれたのが、ロック歌手の川村かおりだ。若い人でも、名曲「ZOO」を知っている人は多いのではないだろうか。ソ連崩壊直前にオールナイトニッポンでパーソナリティーを務めた彼女は、ラジオで何を伝えたかったのだろうか。※本稿は青島顕『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社)の一部を抜粋・編集したものです。
オールナイトニッポンから
ゴルバチョフへの手紙
40代より上の世代なら覚えているかもしれない。JALの旅行商品「アイル」のコマーシャルに登場した、澄んだ瞳と少年のようなとがった表情をした少女。「アイル・ビー・ゼア」のフレーズが耳に残るテンポのよい曲を歌っていた。東西冷戦が終結し、ベルリンの壁が壊された東欧ブームのただ中に、チェコの街路で撮影されたCMは印象に残るものだった。
オールナイトニッポンの土曜深夜の2部(日曜早朝3~5時)を1989年4月から2年間担当し、「やあ、やあ、やあ川村かおりです。松任谷さんお疲れさまでした」と1部のパーソナリティー松任谷由実さんにあいさつする言葉から放送を始めるのが習わしだった。スタート時は18歳。高いトーンの声で「寝てんじゃねえぞ」と絶叫するテンションの高さに「無駄に明るいトイレの100ワット」とあだ名を付けられた。
モスクワ生まれのかおりさんはロシア語が得意で、通訳を介さずにソ連の人と言葉を交わしていた。「日本語が全くなくなり、ロシア語だけが飛び交う時間があった」と言われる異色のオールナイトニッポンだった。
それだけではなかった。「ゴルバチョフへの手紙」である。当時のゴルバチョフ書記長(のちに大統領)がペレストロイカで国を立て直し、日本との友好関係を発展させると信じていたかおりさんは、リスナーからゴルバチョフに手紙を書いてもらい、放送で読み上げ、それをソ連大使館に届けていた。
熱意は徐々に大使館や日本の政治家を動かした。ゴルバチョフ大統領が1991年4月に初めて日本を訪問した際、かおりさんは東京での晩餐会に当時の海部俊樹首相から招待され、ゴルバチョフ大統領と直接言葉を交わしている。
ソ連崩壊の翌年にも日本に来たゴルバチョフ氏のパーティーに参加。本人のテーブルに進み出て、当時はやっていた簡易カメラ「写ルンです」や手紙を手渡し、「(後継者の)エリツィンをあまり好きではありません。いつまでもあなたを支持します」と話しかけ、本人から「まだがんばるつもりだ」との言葉を引き出している。