「印象派というのは聞いたことがあるけれどよくわからない」……そんなあなたにおすすめなのが、書籍『めちゃくちゃわかるよ!印象派』。本書は、西洋絵画の巨匠とその名作を紹介するYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』にアップされた動画の中から、印象派とそれに連なる画家たちを紹介した回をまとめたもの。YouTube動画と同様に、山田五郎さんと見習いアシスタントとの面白い掛け合い形式で構成されています。楽しみながら、個々の画家の芸術と人生だけでなく、印象派が西洋絵画史の中で果たした役割まで知っていただけます。『グレイト・ウェスタン鉄道』で、疾走する蒸気機関車のスピードそのものを描いたターナーの関心は、形を正確に模写することではなく、そこから受けた「印象」を表現することに向かいます。

形が失われ、色だけになる

山田五郎(以下、五郎) ターナーはここにきて、対象の形を写すだけじゃなくて、それが人に与える印象を描いているんです。スピードが速いとか、機関車が力強いとか、雨で靄ってるとか。そういうきわめて抽象的な「印象」を描いているのであって、蒸気機関車の形を正確に描くことには、もはや興味がなくなっている。

アシスタント(以下、アシ) それって「印象派」ってこと?

五郎 そう。ターナーはこの点では印象主義を先取りしていた。さらにもう1つの特徴は、さっき「何が描かれてるかわからない」って言ってたけど、形がなくなり、色だけになってくる。これなんて、その最たるもので。題名は『日の出 岬の間の舟』というんだけど。


ターナー『日の出 岬の間の舟』(1840-45年、油彩、91.4 × 121.9cm、テイト)

アシ えっと、どれが舟????

五郎 真ん中の黄色くなってるところがたぶん日の出だよね。左の茶色っぽいところが岬なんだろうなってのはわかったけど、舟はわかる? 俺はわからなかったよ。

アシ 「岬の間の舟」だから、真ん中あたりなんでしょうけど、舟、ないですよね。

五郎 もう「形」なんて残ってないでしょ? もはや抽象画でしょ? この「舟」の絵にあるのは、ほぼ空気感と色彩だけなんですよ。これを1840年頃、モネが生まれた年にもう描いているんですよ。驚くのは、さっきも言ったように、ターナーの人生は順風満帆なんです。印象派が出てきたときは、描きかけの壁紙のほうがマシって怒られたけど、それを言うなら、ターナーの時代にはもっと叩かれていたっておかしくない。にもかかわらず、これがまかり通ったのは、ターナーが描いたから。そのくらいこの人の地位は揺るぎなかったということなんだよ。

アシ ターナーさんなら、しかたないと(笑)。

五郎 たとえるなら、ビートルズが「ホワイト・アルバム」でわけのわからないことをやりはじめても、「ビートルズだから」で通っちゃったのと同じ状態なんだよ。「ナンバーナイン、ナンバーナイン……」と謎の呪文をつぶやかれても、「ビートルズさん、ついていきます」って人が多かった。それと同じで、もう誰も文句が言えないところに来ちゃったのが、ターナーのすごいところなんです。たとえば、冒頭で紹介したノラム城だって、ちゃんと描いている絵もあるんですよ。

五郎 たぶん、みんなは、上の水彩画みたいにすてきな絵がほしいなって頼んだと思うんだよ。でも、『日の出』が来ちゃったら、もう「ありがとうございます」って買うしかなかったんじゃないかな。


ターナー『ノラム城、ツイード川のほとり』(1822-23年、水彩、15.6 × 21.6 cm、テイト) 
ターナー『ノラム城、日の出』(1845年頃、油彩、90.8 × 121.9 cm、テイト)

アシ たしかに(笑)。

イタリア行ったら、人生変わった!

五郎 どうしてターナーは、こんなにぶっ飛んだ絵を描くようになったのか。最初はこうじゃなかったのに。変わった原因の1つが、1819年から何度か行ったイタリア旅行。よく言われるターナーのターニングポイントです。これについては、旅行前と旅行後を比較すると一目瞭然で、旅行後のほうが格段に絵が明るくなる。

ターナー『アヴェルヌス湖―アイネイアスとクマエの巫女』(1814-15年頃、油彩、71.8 × 97.2 cm、イェール大学英国美術センター)

 
ターナー『金枝』(1834年、油彩、104.1 × 163.8 cm、テイト)

五郎 上がイタリア旅行前の『アヴェルヌス湖』。アイネイアスというローマの建国神話に出てくる人物を描いた作品で、まだ行ったことのないイタリアを舞台にしている。下がイタリア旅行後に同じ場面を描いたもので、フレイザーの『金枝篇』の口絵として使われた。

アシ たしかに空気感が違う。

五郎 ヨーロッパに行くことがあったら、ぜひ体験してみてほしいんだけど、オランダあたりから南下して、アルプスを越えてイタリアに入ると、本当に変わるんだよ、光が。明るいんだよ。よく、昔のフランドルの画家がはじめてイタリアに行って光に驚いたと日記に書いてたりするんだけど、俺も実際に行ってみて、「これか!」と思ったよ。まして、イギリスはオランダよりも暗い。とくに冬は、もう死にたくなるほど暗いんだよ。いつも雲に覆われてて。緯度が高いから、昼の3時くらいからもう暗くなってくるし、朝も10時頃まで暗いしさ。そんな国の人がイタリアに行ったら、そりゃ驚くよ。それでハジけちゃう人って、多いんだよ。

アシ 北国からはじめて南の島に行った、みたいな。

五郎 ターナーはイタリアに行くことで、まずこの明るい光に目覚めた。そしてもう1つ、ターナーに影響を与えたのが、意外なことにゲーテなんです。小説家で詩人だったゲーテは、実は科学者でもあって、有名な『色彩論』を書いている。1810年にドイツで出版されたんですけれども、1840年にイギリスで英訳版が出た。ターナーの絵から形が失われていくのって、この1840年以降なんですよ。さらに、ターナーが間違いなくゲーテの『色彩論』を読んでいたとわかるのは、『光と色彩(ゲーテの理論) 大洪水の翌朝』というタイトルの絵を描いているからです。

ターナー『光と色彩(ゲーテの理論) 大洪水の翌朝』(1843年、油彩、78.7 × 78.7 cm、テイト)

アシ 光の中に、人がいますね。

五郎 ノアの方舟の大洪水の次の朝、モーセが創世記を書いているところらしいんだけど。そこでゲーテの『色彩論』に基づく光と色彩を描きましたというわけ。

アシ わかったような、わからないような。

五郎 たぶん、ゲーテの色相環みたいなものをイメージしたと思うんだけど、色彩理論に基づいて、こういう実験的な絵を描くというのも、いままで誰もやってなかったことなんです。これをきっかけに、ターナーはどんどん色だけの人になっていく。で、最終的に、さっきの『日の出 岬の間の舟』の境地まで行っちゃうわけですよ。光と色彩がすべての境地。だから、例の20ポンド紙幣にも、「Light is therefore colour(光は色彩である)」と書いてある。これはターナーの言葉なんです。

アシ 光というのは結局、色のことなんですよと。

巨大噴火がもたらした異様な夕焼け

五郎 ただ、いくらなんでも靄りすぎだろうという声もあります。色彩理論に基づいたとしても、別に靄る必要はないんじゃないかと。この靄りグセは、いったいどこから来たのか。それについてはおもしろい説があります。その説明によく出てくるターナーの作品がこれなんだけどね。


ターナー『チチェスター運河』(1828年頃、油彩、65.4 × 134.6 cm、テイト)

五郎 1816年のヨーロッパは俗に「Year Without a Summer(夏のない年)」と呼ばれていて、それはなぜかというと、その前年の1815年に、インドネシアのタンボラ火山が大噴火しているんです。記録が残る中では、史上最大の噴火とされていて、その粉じんが世界中を覆って、世界的な冷夏になった。細かい粉じんだけじゃなくて、硫化ガス(火山ガス)が成層圏に達すると、硫酸エアロゾルというのになって、それが成層圏にたまると数年は滞留する。だから、1820年前後のヨーロッパでは、やたら異常な夕焼けが見られて、みんな描いているんだよ。Wikipediaで「夏のない年」を検索すると、ターナーのこの絵が出てきます。だけど、この絵は1828年頃に描かれたので、ずいぶん時間が経っている。そこで、もっといい例として、前回も出てきたフリードリヒの『海辺の二人』をあげておく。こちらは1817年の絵です。


 
フリードリヒ『海辺の二人』(1817年、油彩、51 × 66 cm、ベルリン旧国立美術館)

アシ たしかにすごく靄ってる!

五郎 こういう感じの妙な夕焼けってたまにあるじゃん。どうやら1820年前後のヨーロッパは、やたら靄ってたらしいんだよ。それがターナーの靄りグセの原因の1つになっているんじゃないかという人もいる。

アシ 実際に靄ってたなら、靄りグセもしかたない。

五郎 2022年1月15日に、ポリネシアにある海底火山フンガ・トンガが大爆発したのは覚えてる?

アシ ありましたね、日本にも津波が到達したとか。

五郎 この噴火の影響で、夏のない年が再来するんじゃないかとも言われている。もしかしたら、2024年以降にも、妙な夕焼けがあちこちで見られるかもしれません。そしたら、ターナーの靄った絵をぜひ思い出してください。

アシ はい。とても勉強になりました!

五郎 ターナーはすごく革新的な人でした。あとで何度も出てくるけど、1870年に普仏戦争がはじまったとき、のちに印象派の中核を担うモネとピサロはロンドンに避難して、10か月ほど滞在していたあいだにターナーをものすごく研究したんです。その成果が1872年の『印象、日の出』につながった。

アシ やっぱりモネがマネしたんですね!

五郎 その『印象、日の出』を、最初の自分たちの展覧会に出したことが、印象派と呼ばれるきっかけの1つになった。その意味では、ターナーがいなければ、印象派は生まれなかったかもしれない。ターナーは印象派の生みの親と言えなくもないんです。というわけで、今回紹介した『ノラム城、日の出』は、美術界のビートルズ、ターナーの偉大さを物語る1枚でした。