「印象派というのは聞いたことがあるけれどよくわからない」……そんなあなたにおすすめなのが、書籍『めちゃくちゃわかるよ!印象派』。本書は、西洋絵画の巨匠とその名作を紹介するYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』にアップされた動画の中から、印象派とそれに連なる画家たちを紹介した回をまとめたもの。YouTube動画と同様に、山田五郎さんと見習いアシスタントとの面白い掛け合い形式で構成されています。楽しみながら、個々の画家の芸術と人生だけでなく、印象派が西洋絵画史の中で果たした役割まで知っていただけます。今回はターナーといえば誰でも思い浮かべる代表作を取り上げます。かつて「七つの海を支配した」といわれた海洋国家で船舶好きのイギリス人の心の琴線に触れる名作です。

最初の変わり身:最新ニュースを描く「ロマン主義」

山田五郎(以下、五郎) まず、この時代に新しく登場した「同時代の出来事を描く」という挑戦をやっています。それまでの西洋絵画では、歴史画といって、ギリシャ神話や聖書の物語のように、基本的に昔の話を描いた絵がいちばん格上だったわけです。でも、そうじゃなくて、いま現実に起きていることを描こうよ、という動きが19世紀に入って出てきた。ロマン主義のドラクロワは1830年に起きたフランスの7月革命を描いたし、ゴヤは1808年の虐殺事件をリアルタイムで描いたわけです。

 
ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1830年、油彩、260 × 325 cm、ルーヴル美術館)

 
ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』(1814年、油彩、268 ×347 cm、プラド美術館)

五郎 そしてターナーが1810年頃に描いたのが、この『ミノタウロス号の難破』なんです。ミノタウロスというのはギリシャ神話に出てくる牛頭人身の怪物なんだけど、そういう名前がついた戦艦が難破したところを描いたとされる作品です。

ターナー『ミノタウロス号の難破』(1810年頃、油彩、173 × 241 cm、カルースト・グルベンキアン博物館)

五郎 イギリス海軍がナポレオン軍に勝利したトラファルガーの海戦でも活躍したこの戦艦は、英露戦争のきっかけとなった第二次コペンハーゲンの海戦に参加して、帰ってくる途中にオランダの沖で座礁して沈没したんだよ。それで370人から570人と言われる犠牲者が出て、史上最悪の海難事故としてすごいニュースになった。この絵は、その事故を描いた作品とされているんだけど、実はそうじゃなくて、ターナーはもともと、ミノタウロス号とは全然関係ない船が難破したところを描いていたんです。

アシスタント(以下、アシ) え?

五郎 ターナーは当時「難破画」に凝っていて、荒れ狂う海と難破する船、という組み合わせの絵を描いていた。そこに、ミノタウロス号が難破したというニュースが届いたんです。それで急遽、題名を変えて『ミノタウロス号の難破』として発表するんですよ。

アシ いいんですか??? そんなことして(笑)。

五郎 ズルいって思うかもしれないけど、当時はまだ写真がない。事件現場を記録した写真なんて、誰も持ってないわけ。だから、どんな状況だったかなんて、誰にもわからない。もちろん、ターナーも現場は見ていないし、そのつもりで描いていたわけでもないんだけど、ここで重要なのは、ターナーが「これを絵の題材にすれば売りになる」と自覚していたことなんだよ。

アシ 「こいつはイケる!」って思ったわけですね。

五郎 それ自体が、すごく新しい感覚なの。伝統的な歴史画や普遍的な価値よりも、いま現実に起きていることを描く同時代性とか個別性がウケる時代が来た、ということがターナーにはよくわかっていたんだよ。だからターナーのこの作品はほかの国の画家にも影響を与えた。たとえば、フランス・ロマン主義絵画の幕を開けたと言われるジェリコーの『メデューズ号の筏』という作品。


ジェリコー『メデューズ号の筏』(1818-19年、油彩、491 × 716 cm、ルーヴル美術館) ジェリコー『メデューズ号の筏』(1818-19年、油彩、491 × 716 cm、ルーヴル美術館)

五郎 これもやっぱり、フランスで実際に起きた海難事故を題材にした作品。1800年代前半の西洋絵画界は大難破ブームなんだよ。

アシ 大難破ブーム(笑)。

五郎 ただ、ジェリコーのこれはかなり悲惨な事故で、メデューズ号というフランスの軍艦が難破したとき、筏に乗って漂流した人たちの食料がなくなって、死んだ人を食べたとか食べなかったとか言われてるんだよ。ちなみに、このジェリコーの修業時代の弟弟子がドラクロワで、この作品の手前でうつぶせになっている人物のモデルを務めたと言われている。

アシ 顔が見えないから、誰だか全然わからない(笑)。

五郎 この難破事故では、フランス海軍の対応が悪かったということで、すごく非難された。だから海軍がジェリコーのこの作品に難色を示したんだよね。国家に買い上げられたんだけど、ルーヴルでお蔵入りにされちゃった。そこでジェリコーは自分でこれを買い戻して、イギリスに持っていって展示したら、すごい人気を呼んだ。どうしてイギリスで人気が出たかというと、やっぱりターナーのベースがあったからだと思うんだよね。

アシ イギリス人には難破はウケる!

イギリスで人気ナンバーワン『戦艦テメレール号』

五郎 ターナーが実際の事件を描いた最も有名な作品が、こちらです。『解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年』という長~いタイトルがついているんだけど、2005年にイギリスのBBCラジオが「イギリス国内にある絵でいちばん好きな絵はどれですか?」というアンケートをした結果、圧倒的な1位はこれだった。

 
ターナー『解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年』(1839年、油彩、90.7 × 121.6 cm、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)

アシ イギリス人がいちばん好きな絵!

五郎 テメレールはフランス語で無鉄砲って意味。これもトラファルガーの海戦なんかで活躍した戦艦なんだけど、老朽化して解体することになって、ドックに曳航されていくところなんです。実はすごくよく考えられた絵で、右側の水平線に陽が沈む一方、左上には月が昇ってるでしょ。さらに、テメレール号は帆船だけど、それを曳航しているのは蒸気船。だから、帆船の時代が終わって蒸気船の時代になる、日没と月の出で世代交代、というのを象徴した絵なんだよ。

アシ なるほど~!

五郎 海洋国家のイギリスは、前回の 難破船ブームでもわかるように、やっぱり海の絵が好きなんですよ。帆船も大好きだし。まして、かつてナポレオンを倒した名帆船が役目を終えて、新しい世代の蒸気船に曳かれて、解体されるためにテムズ川をくだっていくというのは、グッとくるシーンなんだよ、イギリス人にとって。

アシ 老将軍、ありがとう、みたいな。

五郎 そうそう! だから、2020年にポンド紙幣が新しくなったときに、20ポンド紙幣に、ターナーの自画像と戦艦テメレール号が採用されたわけ。イギリス人にとって、ターナーといえばこの作品なんですよ。ターナー自身もこの作品は生涯売らずにアトリエに飾っていた。ものすごい高い値段で買うという人が出てきても売らなかった。それで、亡くなったときに国に寄贈したんです。とにかく、ターナーはまず、こういう現実の事件を描くところが新しかった。

産業革命で「カッコいい」の基準が変わった

五郎 もう1つ、地味に新しかったのが、自然の脅威を描いたこと。それまでは、自然の脅威を描いた絵って、あんまりなかったんです。難破船と荒れ狂う海とか、やたら険しい岩山とか、そういうのは画題にならなかった。だけど、この絵は、スイスからイタリアへ抜けるゴッタルド峠の脅威を描いてる。崖ぎりぎりのところとか、悪魔の橋という危なっかしい橋を渡っていかなきゃいけない難所で、かつてはよくここで人が亡くなった。

ターナー『悪魔の橋、ゴッタルド峠』(1803-04年頃、油彩、76.8 × 62.8 cm、チューリッヒ美術館)

アシ めちゃくちゃ危険じゃないですか。

五郎 人が死んでるわけだからね。でも、この自然の脅威というのが、18世紀の終わり頃になると、単なる恐怖の対象じゃなくて、崇高な美というふうにとらえられるようになってきた。それというのも、だんだん自然が怖くなくなってきたからなんですよ、産業革命のおかげで。

アシ 蒸気機関の発明!

五郎 それまで人間は自然に翻弄されるしかなかったんだけど、機械の助けを借りて、ある程度、対抗できるようになってきた。おかげで自然を崇高な美として眺める余裕が出てきたんだよ。これはイギリスに限ったことじゃなくて、ロマン主義の時代のヨーロッパ全体で見られる傾向で、たとえば、ドイツ・ロマン主義のフリードリヒという人が描いた『氷海』という絵があるんだけど。

フリードリヒ『氷海』(1823-24年、油彩、96.7 × 126.9 cm、ハンブルク美術館)

アシ 寒そうですね。

五郎 こんなの、昔は画題にならなかったんだよ。「ただ荒涼としてるだけじゃないか」「寒いだけでしょ」と思われていた。それが逆に「これってすごくね?」「自然の力ってすごいよね」みたいに変わってきた。さっきの『戦艦テメレール号』だって、帆船は自然の風で進むしかない船だから、嵐になれば翻弄されるがままだったわけじゃないですか。

アシ されるがまま……。

五郎 でも蒸気船は、自然の力に頼らなくても、自力で進むことができるでしょ。それが新時代を象徴しているわけ。この感覚は、フランスの印象主義なんかにも受け継がれていく。たとえば、冒頭で紹介したモネの『印象、日の出』も、よく見ると、左後ろのほうに工場の煙突が描かれているんだよね。

【山田五郎さんに聞いてみた】印象派の先駆けターナーが描いた英国人に一番人気のある絵とは?

アシ ホントだ。クレーンみたいなのもありますね。

五郎 日本でいうと、京浜工業地帯みたいな感じじゃん。いまの感覚だと、どうせ日の出を描くなら、九十九里浜とか相模湾とか、もっときれいなところを描けばいいのに、なんで後ろに京浜工業地帯があるんだよって疑問に思うかもしれないけど、当時はこれがカッコよかったんだよ。

アシ え?

五郎 おじさん世代ならわかると思うけど、昔は煙突からもくもく出る煙は、国が発展する象徴であり、カッコいいものだったんだよ。俺も子どもの頃に、できたばかりの首都高速道路で横浜に向かう途中で京浜工業地帯からもくもく上がる煙を見ると、「すごいな、わが国は!」とワクワクしたもんだったよ。もちろん、工場からの排煙が公害として問題になる前の話だけどね。

アシ 高度経済成長期、の話ですよね?

五郎 そうそう。ターナーの『戦艦テメレール号』だって、「こんなにでっかい戦艦を、こんなにちっちゃい蒸気船が曳航できるんだ、すごいな」という、わりとすなおな感激が表現されている。蒸気機関車がカッコいいというのと同じで、それを描くこと自体が新しかったわけです。その新しさが極まったのが、この作品。


ターナー『雨、蒸気、スピード―グレイト・ウェスタン鉄道』(1844年、油彩、 91 × 121.8 cm、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)

五郎 グレイト・ウェスタン鉄道という、1838年に開通した鉄道の絵なんですけれども、この新しさ、ヤバくないですか?

アシ 新しすぎて、何が描かれてるか、全然わからない(笑)。

五郎 タイトルにあるように、霧雨の中を蒸気機関車が疾走しているところを描いているんだけど、これはもう完全に新しい美意識で、スピードそのものがカッコいいわけ。雨も、それだけを描くのではなく、湿気を含んだ空気まで描いているでしょ。

アシ 霧の中の蒸気機関車。