「ちょっと、お時間いいかしら」
昔ながらの酒屋の女将の一声

 新田酒店は住宅街にある小さな酒屋さんです。小学校の先生だった奥さんが店に立って、ほとんど彼女一人で切り盛りしています。店頭にはコカ・コーラの自販機がありますが、設置して随分経つので古さは否めません。

 量販店と違ってそれほど手を掛ける時間もないので、私たちも含め多くの業者が注文を聞き終え、納品を済ませるとさっさと次に行ってしまいます。

 ある日のこと、納品を済ませてクルマに向かおうとした時、改めて自販機を見ると結構汚れています。やれやれと思いつつ、清掃キットをクルマから降ろし、一通りの掃除をしてから次に向かいます。たいして時間も掛けられないので、それなりにきれいになったかなという程度です。「少しでもきれいになったら十分。よくやった!」と自分で自分を納得させます。

 そうするとついつい気になって、また次の週も同じことをして帰ります。やがて、自販機の清掃がお店を訪問する時の当たり前のルーチンのようになってきますが、古い自販機なので「見違えるようにきれいになった」ということにはなりません。それでも手を掛けるのを怠れば、わずか一週間でなんとなくくすんでしまいます。「少しでもきれいになったら気持ちも良くなるし、一本でも余計に売れるかもしれない。良しとしよう」と割り切ります。人間、慣れればこんなものです。

 今日はいつもの訪問日です。清掃キットを持って自販機の前で掃除を始めようとすると声を掛けられました。

「いつもありがとうね」

 振り返ると新田酒店の奥さんです。穏やかな方ですが、元先生だけあって、こちらが至らないことをするとチクリと厳しいことも言われます。

「はい。いえ、こちらこそ……」

 とっさの言葉が出ず、相変わらず気の利いたことが言えません。

「ちょっと、お時間いいかしら」

 そう言われるまま後ろについて行き、レジカウンター脇の椅子に腰を掛けます。そこにはコカ・コーラの自販機のカタログがあります。私が渡した記憶はないので「どうしたんだろう」と思っているところに奥さんから、「じつは先日、急な注文をお願いした時に来てくれた方から『ここの自販機はあまりに古いので、新しいものに替えたほうがいい』と勧められたの。いまならサービスしますとかいろいろ言われたけど、その時はどうしても買おうという気にならなくてお断りしたのよ」

 カウンターのカタログに目をやります。「代わりに配達って誰だろう」とカタログにクリップ留めされている名刺を見ると山口さんです。彼は私より一年早く入社した年下の先輩ですが、セールストークも流暢で販売成績もまずまずです。一方こちらは歳こそ上ですが、販売成績のほうはまだまだです。

 こんな時、慣れている営業担当ならすぐに機転を利かせて売り込むところですが、新人営業マンの私は黙って相手の話を聞くばかりです。