職場には「いつも人間関係で悩んでいる人」と「まったく人間関係で悩んでいない人」がいる。一体、何が違うのだろう?
本連載では、ビジネスパーソンから経営者まで数多くの相談を受けている“悩み「解消」のスペシャリスト”、北の達人コーポレーション社長・木下勝寿氏が、悩まない人になるコツを紹介する。
いま「現実のビジネス現場において“根拠なきポジティブ”はただの現実逃避、“鋼のメンタル”とはただの鈍感人間。ビジネス現場での悩み解消法は『思考アルゴリズム』だ」と言い切る木下氏の最新刊『「悩まない人」の考え方 ── 1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30』が話題となっている。本稿では、「出来事、仕事、他者の悩みの9割を消し去るスーパー思考フォーマット」という本書から一部を抜粋・編集してお届けする。

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「責任」と「悩み」の関係

「責任」というものをどう捉えるかも、「悩み」に大きく関係している。

 責任の「意味」を履き違えたり、責任の「範囲」を見誤ったりすることで、本来は悩む必要がないことにまで心を煩わすことになってしまう。

 あなたはふだん、どんなときに「これは自分の責任ではない」と感じているだろうか?

 どんなケースだと、「これは他者の責任だ」と考えるだろうか?

 次に挙げたのは、さまざまな「他責」の例だ。

 このうち、「本来は自責で考えたほうがいいもの」はどれだろう?
 まずは直感で答えてみてほしい。

□「この顧客はいつも文句ばかり言うクレーマーだ。要求が無理難題すぎるから、まともに対応できなくても仕方がない……」
□「プロジェクトが失敗したのは、同僚がスケジュールを守らなかったからだ。彼女がもっときちんと仕事をしていれば、結果が出せていたはず……」
□「友人がいきなり大きな声を出したので、びっくりして大事なお皿を落としてしまった。彼がそんな発言をしなければ、お皿を割らずにすんだのに……」
□「電車の人身事故で足止めをくらったせいで、打合せに遅刻してしまった。事故がなければ余裕で間に合ったのに……」
□「天気が悪かったからイベントが中止になった。雨が降らなければ、いま頃楽しめていたのに……」

どこまでが「自分の責任」なのか

 多くの人は、出来事には「自責の場合」と「他責の場合」があると考えている。

 特に責任が問題になるのは、物事が思いどおりに運ばなかったり、想定外の出来事が起こったりしたときだ。

 そんなとき、「それはあの人の責任」「これは自分の責任」と考える。

 人によって比率は異なるが、多くの人は一部の出来事を自責、一部の出来事を他責として解釈する。この思考アルゴリズムを「他自責混在思考」と呼ぶことにしよう。

 世の中にはまったく責任を取ろうとしないように見える人がいる。
 しかし、すべてを他責で捉えている人は現実的には存在しない。
 そういう人は他責幅が異常に広い「他自責混在思考」といえる。

 一方で、「悩まない人」は「全部自責思考」である。
「全部自責思考」の人は、全責任は自分にあると考える。

「他自責混在思考」と「全部自責思考」の違い

「他自責混在思考」の人と「全部自責思考」の人では「原因」と「責任」の捉え方が違う。

「他自責混在思考」の人は、出来事の「原因」と「責任」を同一視している。

 たとえば、Nさんは同僚にプロジェクトを手伝ってもらったが、同僚がスケジュールを守らなかったため、そのプロジェクトが失敗してしまった。
 このとき、プロジェクトが失敗した「原因」は同僚にあるといえる。
「原因=責任」なので、プロジェクトが失敗した「責任」も同僚にあると考えている。

 逆に、Nさんが自らプロジェクトを主導しており失敗してしまった場合は、「原因」はNさん自身ということになる。
 当然、その「責任」もNさん自身にある。

 一方、「全部自責思考」の思考アルゴリズムでは、「原因」と「責任」を分けている。
 プロジェクトが失敗した「原因」はたしかに同僚だが、その「責任」はNさん自身にあると考えるわけだ。

「全部自責思考」の人は、すべての出来事の「原因」が自分にあると考えているわけではない。

 ただ、自分が「原因」であろうとなかろうと、その「責任」はとにかくすべて「自分」にあると考えているのである。

 また「責任を取る」ということの捉え方も違う。

「他自責混在思考」の人は「責任を取る=罰則を受ける」と考える。
 だから、他人が原因の責任を取らされるのは損以外のなにものでもない。

 一方、「全部自責思考」の人は「責任を取る=問題を解決する」と考える。

 だから責任を取る行為とは、自分はもちろん、他人やほかの原因で失敗したことに対して問題を解決したり再発防止策を打ったりすることである。

 もう一度まとめると、両者の思考は次のように違う。

●他自責混在思考
 同僚がスケジュールを守らなかったせいでプロジェクトが失敗した。
 →「同僚が原因で同僚の責任だ」

●全部自責思考
 同僚がスケジュールを守らなかったせいでプロジェクトが失敗した。
 →「プロジェクトの失敗の原因は同僚だが、責任は同僚に任せた自分にある。まずは自分がこのプロジェクトのリカバリーをしよう。
 また、今後は任せる相手をもっと吟味し、任せっきりにするのではなく、定期的にチェックを行い、任せた相手が失敗しないようにしよう」

 ここでも「他人を変える」のではなく「自分が変わる」のである。

なぜ「関係なさそうな事件」も「自分の責任」だと言えるのか?

 以前、私が「他自責混在思考」と「全部自責思考」の違いについてSNSでポストしたところ、多くの人から反応があった。

 その中には「……でも、こんなケースなら自責にはならないですよね?」といった質問が多く含まれていた。

 結論からいうと、それらはすべて私には「自責」の範囲に入るものだった。

 このとき私は、いかに多くの人が「他自責混在思考」に縛られているのかを実感した。

 多くの人には「全部自責思考」はかなり納得しづらいらしい。
 ひととおり説明しても、出来事の「原因=責任」という思い込みが抜けない人はけっこういる。

 逆にいえば、ここが「悩まない人」の考え方の核心部分ということだ。

 これをクリアできると、世の中の見え方がガラッと変わる。

 とても大事な分岐点なので、ぜひスピードを落としてじっくり読んでほしい。

「全部自責思考」は「全部自分が責任を取る」という「意志」の話である。
 意志の観点でいえば、なんでも自責にできる。

 たとえば、日本のある遠い町で通り魔事件が起きた。
 これを「全部自責思考」で考えると、自分が被選挙権を行使してその地域の政治家となり、影響力を持って再発防止策を実施することができる。
 少なくとも国内で起きる出来事は、25歳以上の被選挙権を持つ人なら「全部自責思考」で考えられる。

 しかし、「意志」なので、やるかやらないかは別問題だ。
 私自身は「自分の会社」に対しては「全部自責思考」を行使しているが、「日本国全体」に対しては行使していない。

 ただ、私は「遠い地域で起きたから責任は果たせない」ではなく、「被選挙権を行使すれば責任を果たせるかもしれないが、それをしないと決めた」という意志を持っている。

「できない」のではなく「やらない」と決めているのである。

 だから、「これは自責にできませんよね?」という質問に対する答えは、「できます。ただ、やるかどうかは自分の意志次第」である。

「問題に対処できる/できない」で見ると、すべてのことは「自責」に回収できる。

 なぜなら、本書で詳しく見たとおり、「できない」は存在しないからだ。
 世界にだれか一人でもそれを実現している人がいるなら、そのやり方を調べ尽くして同じことを実践すれば、それは「できる」に変えられる。

「責任がある」と「責任を取る」のあいだ

 もちろん、「だからみんな政治家になろう」という話ではない。
 私はあくまでも「思考アルゴリズムとしての責任」の話をしているのだ。

 いま説明してきた思考アルゴリズムを習得すれば、どんな出来事も「自責」で“解釈”できるようになる。

 しかし、そのような「自分の責任」を“取るか取らないか”は、まったく別の話である。

「責任を取る」とは、その問題に対処することだ。

 つまり、「私は起きているすべての問題に対処することが“できる”」としても、「問題に対処する“行動は取らない”」という選択はあってもいい。

 これは「1兆円企業をつくれる(=つくる方法がわかっている)」としても、「1兆円企業をつくらない(=方法を実践しない)」という人がいていいのと同じだ。

 遠い町で起きた通り魔事件に対して、たしかに私は責任を持っている。
 被選挙権を行使して政治家になれば、その再発を防ぐための対策を講じることが「できる」からだ。

 しかし、それを実行しようという意志は持っていない。
「できない」のではなく「やらない」と決めているのである。

 責任を取らないことは、別に悪いことではない。
 私は通り魔事件の責任を取ろうとは思わない。

 ただ、同時に私は、それを他人の責任だとも思っていない。
 もちろん、事件が起きた原因は犯人にあり、犯人が刑事責任を負うことになる。

 しかし私はこのときに「日本の政治が悪い」「市の防犯管理がなっていない」「警察がサボッている」「被害者が不用心すぎた」といった「他責」じみたことは絶対に考えないし言わない。

「もっとこうやればいいのに」といった期待はするが、私自身がその問題の責任を取らないと決めているのに他人に責任を押しつけるのはそれこそ「無責任」だ。

「成長」とは「責任を取る範囲」を広げていくこと

 かつて「経営の神様」といわれた松下幸之助さん(1894~1989)は「雨が降っても自分のせい」と言った。

 彼は天候すらも「自分の責任」と考えていたが、人工気象操作システムを開発するなどして、責任を果たしたわけではない。

「自分に責任がある/ない」は「思考」の話であり、
「自分の責任を取る/取らない」は「意志」の話である。

 すべてを自分の責任と「解釈」するにしても、
 すべての責任を取ろうと「決断」する必要はない。

 自分のキャパと実力に応じて、どこまでの範囲で責任を果たすかは、自分次第である。

 私は、「自分の会社」で起きたことはすべて自分の責任と考えるし、全責任を果たすと決めている。

 そして自分と直接接点があることに関しては、なるべく自分が責任を取ろうとしている。そこは個人ごとに無理をする必要はない。

 ただ、「私は“あらゆる問題”に対処することが“できる”」という「考え方」を習慣づけておくほうがいい。

「自分にコントロールできないことがない」と思っていれば、どんなことにも悩まなくなるからだ。

「それは私の責任ではない」「私には対処“できない”問題だ」ではなく、
「それは私の責任である。問題に対処“できる”けれど“やらない”」という自覚を持とう。

できるけれど、やらない」という意思決定は、決して悪いことではない。
 そして、少しずつでいいから「できるし、やる」に変えていこう。

責任を取る範囲」を広げていく。それが「成長」だ。

(本稿は『「悩まない人」の考え方──1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30』の一部を抜粋・編集したものです)