「人生つまらない、退屈だ」今すぐあなたがすべきこと
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されます。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。

「人生つまらない、退屈だ」今すぐあなたがすべきこと【20世紀最大の哲学者の答え】Photo: Adobe Stock

もし、あした死ぬとしたら、今までの人生に後悔はありませんか?

【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。

「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」

ハイデガー哲学を学んだ王子は、「残された時間」をどう過ごすのでしょうか?

【本編】

「人間にしかできない行為」とは?

「まずは『人間は本来、周囲のモノを道具として見る存在である』という本質から始めてみよう」

「ええ、それが人間の本質だと言われれば納得できます」

 もちろん初めて聞けば納得も理解もできなかったと思うが、道具体系(道具連関)の話をさんざん聞かされた今となっては特に異論はない。

「さて、ここで注意しなくてはいけないのが、ハンマーがハンマーとして世の中にあるわけではないということ。つまり『用途が最初から固定化されたモノが世界に転がっているわけでない』ということだ」

 そう言って先生は足元にある小石を拾い上げ、それを私に差し出しながら話を続けた。

「この石は、おまえにとって何の役にも立たないかもしれないし、人にぶつける武器にできるかもしれないし、磨いて弓矢の矢尻にできるかもしれない。この石には様々な道具としての可能性がある、そういう存在だ」

 なるほど、最初から矢尻として落ちている石なんかない、という話か。

「そうですね。その石の使い道には様々な可能性があって、その中のひとつを人間があとから決めているだけですよね」

「うむ、そうすると人間がモノを『道具として見る』ということは、言い換えれば『モノの可能性を問いかける行為』だと言ってよいだろう。ゆえに、人間の本質はこう言い換えることができる。『人間は周囲のモノの可能性を問いかける存在である』と」

人間と動物の「決定的な違い」とは?

 ただ言い換えただけなのだから、たしかにそうなるだろう。でも、少し引っかかるところがある。

「あの……今の話は理解できましたが、でもそれは本当に人間だけの本質なのでしょうか? 人間以外の動物にも同じことが言えるような気がします。たとえば、猿がアリの巣に棒を差し込んでアリを捕まえて食べる、という話を聞いたことがあります」

「おお、良い反論だな。たしかにその通りだ。実際、虫のような単純な動物でさえ、周囲のモノを道具として利用する例もある。だからおまえの言う通り、『モノを道具として見る』というだけでは決して『人間に限った特徴』とは言えないだろう。だが、それでもだ。『道具として見る』という人間の行為には、他の動物にはない、人間固有だと言える特徴が含まれている。それは―『モノを道具として見る』というその視線を『自分自身にも向けてしまう』というところだ」

視線を自分自身に向けてみよう

「視線を自分自身に向ける、ですか」

「さっきも述べたように『道具として見る』とは、対象の可能性を問いかけ、『それが何であるか?』を選択する行為だと言える。それを人間は自分自身に対しても行うことができる。つまり、人間は自分自身の可能性を問いかけ、『自分が何であるか?』を選択できる生き物なのだ」

「それが他の動物にはない、人間だけの特徴……」

「はっはっは、まだピンときていない顔のようだな。もちろん、人によっては、犬や猫なども『自分とは何か』を考えているんじゃないかと思う人もいるだろう。特に犬の場合は、群れを前提とした動物であるため、自分が群れの中でどんな存在、役割であるかを把握している可能性は十分にある。だが、自分が今まで生きてきた時間、そして、これから生きるであろう時間、それらすべてを丸ごと人生だと捉えて、自分にはどんな人生の可能性があるのか、自分とは何なのか―それを問いかけるのは、やはり人間だけではないだろうか? まあ、あまり人間と他の動物をはっきりわけるのが納得いかないなら、ある一定の知能を持つ生物の特徴だと考えてもよいだろう」

 私は空を見上げながら、今の話を落ち着いて考えてみることにした。そもそも生物とは、外界にあるモノを認識し、それを利用して生きている―つまり、「目の前にあるモノは何であるか?」を常に問いかけ選択して生きているわけだが、ではその生物が高度に進化し、複雑な思考を身につけたとしたらどうなるか? 

 きっと最終的には、その問いかけを「自分自身」そして「人生全体」にも向けてしまうだろう。つまり、それまで生存本能や欲求に従い、「目の前のモノは何であるか?」を問いかけてきた生物が、あるとき、私(自我)の存在に気づき、ついには「私とは何であるか? 私が過ごしてきた時間、人生とは何であるか?」を問いかけるようになるということ。なるほど、成り行きとして十分に想像ができる。

(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第4章を一部抜粋・編集したものです)