老後の後悔「生きるのがしんどい」を解決する“たった1つの習慣”
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されます。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。
もし明日死ぬとしたら、今までの日々に後悔はありませんか?
【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。
「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」
ハイデガー哲学を学んだ王子は、「限りある時間」をどう過ごすのでしょうか?
【本編】
「死を忘却した人間、すなわち『人生とは何かを問いかけない非本来的な人間』はどのように人生を過ごすのか?
ハイデガーの答えは『おしゃべりと好奇心に満ちた生き方』だ。おまえ自身はどうだったかな?」
じっくりと思い返すまでもない、ほんの一週間ほど前の、自分の生き方そのものだ。刺激的で豪華絢爛なパーティを繰り返す日々。そして、そこで出会う貴族の友人たち―と言っても死ぬことがわかってから誰も会いに来なくなり、もはや友人の名に値しないが―彼らと話すことと言えば、流行りの服やアクセサリーについて、それから興味をそそる時事ネタやニュース、あとはどうでもいい人間関係の噂話ぐらいだった。
死など忘れて、面白おかしく生きてはいけないのか?
「しかし、人にはいろいろな生き方の選択があっても良いと思います。死など忘れて面白おかしく、ただおしゃべりだけをして人生をまっとうする―それも幸福な生き方のひとつではないでしょうか?」
「その選択が、本当に自己の固有の生き方、つまり『自分オリジナルの存在のあり方』として自分で選び取ったものであれば、かまわないさ。しかし、そうではないのなら―つまり、おしゃべりと好奇心の熱に浮かされて、薄ぼんやりとした意識の中でなんとなくそういう行動をしているだけだとしたら―それは選択とは言わない。
判断能力を失った酔っ払いが、酔いの勢いで何か行動をしたとしても、それは決して選択ではないだろう? そんな判断能力に欠けた状態での行動に基づく生き方は、幸福でもなければ、かけがえのないおまえの人生でもない」
「ということは、逆に言えば自分できちんと判断したのであれば、おしゃべりをして楽しく人生を過ごしても良いのですね?」
私は必死に食らいついた。
「人はいつか、必ず死ぬ」この事実と向き合うしかない
「ああ、そうだな。ただし『おしゃべりだけをして人生を生きるのだと選択する』すなわち『自分の固有の生き方はこれなのだと判断して選ぶ』のだとしたら、やはり死を意識する必要があるがな」
私の目論見に反して、先生はどうあっても死を意識させることを肯定するつもりのようだった。私は思わず不満をもらす。
「……先生はことさら死を突きつけようとしているように感じます」
「死」がなければ、人は自分の人生と真剣に向き合わない
「はっはっは、それは仕方がないさ。ハイデガーの哲学とはそういうものだからな。『本来的に生きる=死を意識して生きる』ということが定式化されている以上、死を意識せずに済まそうなんて発想はそもそもない。繰り返すが、本来的に生きる―自己の固有の生き方を問いかける―ためには、死と向かい合わなくてはならないのだ。
実際の話、仮にこの世から死がなくなり無限に生きられるとしたら、人は自分の人生を真剣に考えたりはしないだろう? それこそおしゃべりをしながら、何百年、何千年とぼんやりと生きていくのではないだろうか。そんな頭に霞がかかったような日常からは抜け出さなくてはならない。だからこそ、ハイデガーは『死の先駆的覚悟(せんくてきかくご)』が必要だと言っている」
(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第5章を抜粋・編集したものです)