三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第15回は【笑いの正体】について考える。
「世界一つまらないギャグは何か」
一度は東大専科を辞めると決意した天野晃一郎だったが、朝早くからバスケ部の練習に行く弟の姿を見て考えを改める。しかし、前日に解いたセンター試験の過去問は303点だった。東大合格請負人・桜木建二から「早瀬より悪いとはガッカリだ」「完全な失敗だ」と言われ、恥じいる天野。そんな天野に、桜木は「失敗した時は笑えっ!」と喝破した。
笑いとは案外奥深いものである。そして、勉強においての「笑い」とはなんであろうか。
かつて「世界一つまらないギャグは何か」を検討したテレビ番組があった。フジテレビの往年の名バラエティー、「トリビアの泉」だ。教育工学や社会学の専門家を呼んで、「世界一つまらないギャグ」とは何かを大真面目に議論させたのである。
専門用語が飛び交うディスカッション。ワイプでそれを見るタレントのポカンとした顔。スタッフの笑い声。わずか数秒間のシーンだが、私はその中にあった「笑いの定義」についてなぜか鮮明に覚えている。
……ハーバート・スペンサーによると、笑いとは「予期せぬズレ下り」だから……
恥ずかしながら、この議論の元となったスペンサーの「ズレ下り理論」の詳細を私は存じ上げない。だけれども、この「ズレ下り」という言葉に妙に納得感を覚える方は多いのではないだろうか。
番組にも出演した木村洋二・関西大学教授の生前のインタビュー記事(関西大学ニュースレター「研究最前線」)がわかりやすい。
「幕の奥から、“ウォー”と獣のほえる声がしたとしましょう。その後、隙間からネズミがちょろちょろ出てくると、笑えます。(中略) スペンサーはこの[ケモノ-ネズミ=+α]の“落差α”が笑いだ、と考えました」
当然こうあるべきだ、との「威厳やリアリティー(前述のインタビュー記事より)」からの逸脱が笑いを生むのである。
前提知識を身につけた先に「笑い」が待っている
勉強にも似たようなところがあるのではないかと思えてくる。
学問における新発見は、「威厳やリアリティー」からの逸脱そのものだと言ってもいい。「常識を疑え」とは使い古された言葉だが、その分の真実味もある。もちろん、既存事実からの演繹的な思考が不可欠なのは付言しておく必要があるだろう。
重要なのは、逸脱できるほどの「威厳やリアリティー」を獲得できているのかどうかだ。要するに、笑えるだけの前提知識があるかということだ。
先の例だと「ウォーと吠えるのは獰猛な動物だ」という知識を持っていればいい。そんなことは小さい子供でも知っている。
ところが、次の例だとどうだろうか。
「数学者はなぜ森林が好きなの?」「そこに天然の丸太があるからだよ。」
元の言語が英語である、と言われてもポカンとなる人は多いだろう。種明かしをすると、天然の丸太=“natural log”=自然対数、なのである。私も解説を聞くまでわからなかった。ちなみに自然対数とは、数学における基礎的な概念の1つだ。
もちろん、こんなジョークを理解するためだけに勉強をするのではない。この一例はあくまで副産物だ。とはいえこんなジョークでも笑えるだけの知識があれば儲け物という見方もできるだろう。
私は、受験勉強を含む中等教育での勉強は「威厳やリアリティー」を内面化するためにあるのだと思う。その道のりは、既存の知識に追随するものだから、当然つまらない。まさに、笑えない。
しかし、あらかたの「威厳やリアリティー」を身につけると、次はそこから逸脱する能力を得る。そこで得られる喜びはもはや「笑い」以上の「知的好奇心」に他ならない。
それは、「威厳やリアリティー」を盾に他者を攻撃する「冷笑」とは全く別のものだ。
「笑い」が「知的好奇心」になる。その過渡期にある者としての日々は、非常に楽しいものである。