三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く新連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第2回は、東大合格の瞬間に感じた「本音」を解説する。
「東大に合格した…!」喜びと同時に
“恐怖心”に襲われた
東大合格請負人の弁護士・桜木建二の前に現れた「女帝」龍野久美子・理事長代行。彼女の圧政を止めるべく、桜木は龍山学園の理事就任を画策する。女帝の味方であったはずの奥田義明校長が彼女を裏切り桜木の理事就任に賛成したのは、彼が高校初の東大合格者誕生の瞬間を思い出したからだった。
筆者にとっても、東大合格の瞬間は強烈な思い出だ。
筆者は、なぜか英検の会場のトイレの中で合格発表の瞬間を迎えた。統計を確認したわけではないので断言はできないが、おそらくレアケースだろう。真っ先に家族へ報告し、その足で高校へ向かったことを鮮明に覚えている。
3月10日の正午。合格の瞬間に込み上げたのは、将来への扉を開けることができた達成感、これから出会う学問や友達への高揚感だった。受験期には、周囲からの無垢な期待がいつしか重圧になっていた。合格を得たことで、そんなプレッシャーからも解放された。
しかし同時に、「ちょっとした恐怖心」を抱いた。
東大には全国から秀才が大勢集まる。これまでは曲がりなりにも持っていた「勉強ができる」というアイデンティティが薄まることで、自分の存在意義も揺らいでしまうのではないか。そんな不安に襲われたのも事実だ。
今まではとにかく合格することしか考えていなかった。それが、合格した瞬間「ひょっとすると、不完全燃焼のまま合格してしまったのではないか」と全力か否かを気にしてしまう自分にも嫌悪感を覚えた。
東大合格者たちは、その瞬間をどのように迎え、どう感じたのか。東大の同級生らに尋ねてみた。
入学後の東大生には
「東大生が個性にならない環境」が待っている
やはり多いのは、家で1人、あるいは家族とともに合格発表をみたケースだ。その他に、「高校の校門の前」や「寮で1人で」という人もいた。合格後「すぐ部屋の奥に積み上がっていた今までの模試を捨てた」というなかなかの強者もいる。
合格・入学に対する「喜び」や、合格する自信がなかったが故の「困惑」の声が多く寄せられたが、しかしそれ以上に「安心・安堵」したという意見が目立った。
「合格を前提に考えていた勉強や生活が実現するとわかり、安心感を一番強く感じていた」
そんな言葉に代表されるように、将来の具体的なビジョン実現への道がひらけたことへの心強さは、その場限りの嬉しさに勝るものなのかもしれない。自己採点で合格を確信していた人でさえ「合格の2文字に安心した」と語る。
また、「すでに受かっていた私大の医学部に進学するつもりであったため、どちらに行くかを決めるのにかなり苦労した」など、進路選択に直面した人もいた。
推薦合格者の「周りの受験生と比べ大して勉強もせず、ただ好きなことをしていただけで合格してしまったことに対して、多少なりとも負い目を感じた」という本音も、示唆に富む。
一方で「嬉し泣きした中学受験の合格時と比較するとそこまでの感慨深さはなく、東大へのこだわりの少なさを認識した」といった意見が複数寄せられたことには、ドキリとさせられた。果たして自分は東大を志望した理由を論理的に言語化できていたのか、と。
入学後、同じ高校だった先輩に「東大は、東大生であることが意味を持たない唯一の空間だよ」と言われたのを覚えている。正直東大には、専攻や進路よりも、難易度やブランドによって「なんとなく東大」で入学した人も少なくはないだろう。
けれども入学後、「東大生」が個性にならない環境の中で、個々の目標や研究課題を明確に定め、あるいは定めようともがいている東大生が大半だ。その意味で、ステレオタイプ的な「東大生」像には違和感を覚える部分もある。また、自分自身反省すべき点でもある。
だが、東大を含め進路選択はコンテンツとして消費されるべきものではない。
もし将来学歴という言葉を口にすることがあるならば、それは「学校の遍歴」ではなく「学びの遍歴」だと言えるよう、筆者も努力せねばならない。