三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第13回は【「ケアレスミスの直らない人」が永遠に気づかないたった1つのポイント】について考える。
ミスをくり返す人は「自分のクセ」を知らない
センター試験の過去問を解いて東大合格への自信を失った早瀬菜緒に対して、東大合格請負人・桜木建二は淡々と人生について語っていく。
今のままだと「自分探しの旅を一生続けるハメに陥るんだ」と言い放つ。そして人生を台無しにしないために「運に乗れ」と言って、手始めにセンター試験の過去問を自己採点するようにアドバイスした。
自己採点とは、なんとも嫌なイベントである。
「いい点数を取れているかもしれない」という思い込みを、自分自身で一つひとつ潰していくのだからあまり心地良くはない。そして悲しいことに、本編のように想像よりも良い点数が出ることはあまりない。
実は、私は自己採点で後悔していることがある。それは、自己採点を「採点」で終わらせてしまったことだ。
「自己採点」の本質は採点の精度ではない。もし正確な採点結果が知りたいのならば学校や塾の先生に頼んだ方がいい。しかし、「自分の答案のクセ」を自覚するには自分でやるのが一番だ。そしてそのクセは、教科や時期を問わず一貫していることが多い。これは他人には気づきにくい。
自己採点の本質は「分類」にある
そもそも「答案のクセ」とはなんだろうか。
例えば数学。計算ミスをする、という人は多い。けれども、「どんな計算ミスをするのか」と聞かれた際に答えられる人は多くないだろう。「自分はsin60°を1/2と答えたことが4回あります」や「17の段の掛け算を5回ミスりました」といった具体的なポイントだ。
漢字ミスやスペルミスもそうだ。“~ly”と書くべきところを“~lly”と書いてしまったことが何回あるか覚えている人はいるだろうか? 「しめすへん」と「ころもへん」を間違えたのは、どの模試とどの模試だっただろうか?
何をどのくらい間違えているのかをデータ化することで、次に同じポイントに差し掛かった時に間違いを防ぐことができる。
もちろん、模試だけはなく普段の勉強もこのデータの標本になりうる。
加えて、自己採点のいいところは自分の採点と他人の採点の乖離を見ることができることだ。模試の採点は学生バイトがやっているケースもあり、個々の採点がどれほど本番の基準に即しているかは議論の余地があるが、ともかく各模試の採点基準は徹底的な分析のもとに成り立っている。
記述の問題を自己採点する際、どうしても「書こうとしたこと」が前提となりがちだ。しかし、採点官はそんなことは知る由もない。答案に書かれた記述を採点基準に照らし合わせて淡々と採点するのみだ。
「自分が書いたこと」を「模範解答」に近づけるのは一朝一夕にできることではない。それに比べれば、「自分が書こうとしたこと」と「自分が書いたこと」の差を埋めるのは、そこまで難しくはない
自分のミスを可視化していくことは単なる作業ではない。この作業で必ずぶつかる障壁は「分類」である。何かを「分類」するためには、より抽象的な定義を考えなければならない。
例えば、スペルミスと漢字ミスは同じものとして考えていいのだろうか? ミスを分類しその原因を探っていくと、実は前者が形容詞と副詞を間違っていたのに対し、後者は漢字の意味の成り立ちを誤解していたのだと気づくかもしれない。
「分かることは分けること」とよく言われるが、ミスを分類し考察していく過程こそが学びを体現しているとも言えるだろう。つまり、「分類」こそが自己採点の本質だ。