世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、唯円の『歎異抄』を解説する。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

「自分は善人だ」と思い込んでいる勘違いの自称「善人」は、実は救われがたい。むしろ「自分は悪人だ」と自覚している「悪人」の方が、仏様の話に耳を傾けるから救われやすいという逆転の発想だ

悪人こそが救われるとは?

 平安時代の末期のこと、美作(みまさか)国(岡山)の武士の子として生まれた源空(法然)は、13歳で比叡山に登り、天台宗を学んで精進していました。

 法然は善導(ぜんどう)の『観経疏(かんぎょうしょ)』の「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)……」によって阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願の真意をさとり、「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」に帰しました。

 念仏をひたすら唱えれば、すべての人が救われると確信したのです。

 親鸞は「専修念仏」の教えを慕って法然に師事し、浄土真宗の開祖となりました。

 親鸞の悪人正機説は、悪人が救われるということですが、「悪いことをしても救われる」と誤解を受けたようです。

 そこで、弟子の唯円が『歎異抄』(異説を嘆く=歎異)で親鸞の教えを説明しなおしました。特に中心的なフレーズが「善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。

 意味は「善人でさえ極楽往生できる、ましていわんや悪人は極楽往生できるのだ」ということ。

「善人」と「悪人」が逆なのではないかと思ってしまいますがこれでよいのです。

「しかし、世の中の人は悪人が極楽往生できるなら、ましていわんや善人は当然極楽往生できるでしょうと言う。これは一見正しそうに思われるが、他力本願の考えに合っていない」(同書)

 これについて『歎異抄』では、「そのゆえは、自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」と記されています。

 ここでは、「他力本願」と「自力作善」という用語にポイントがおかれています。

すべてをゆだねることで心がやすらかになる

 今の世の中では「他力本願」というのは、あまり良い意味で使われていません。人任せという主体性のないあり方として解釈されています。

 ところが、本来は「他力本願」こそが、真の人間のあり方を表現しているといえましょう。

 というのは、人間は煩悩に翻弄される弱い存在であり、自分の力で自分を救うなどとは、むしろ大それた考え方だといえるからです。

 弱い存在であるからこそ、それを自覚して、仏という超越的な存在に任せるしかないのでしょう。

 さらに、親鸞の説いた「絶対他力」とは、実は信心もまた仏様から与えられているという意味です。

 信心というのは、「よし! 信じるぞ!」と努力して生まれるものではありません。

 しかし、阿弥陀仏はすべての衆生を救いたいので、その信心をも与えてくださるというのです。

 つまり、「信じる心も自力ではない他力なのだ」というところまで徹底するのが「絶対他力」です。

 結局、人間は自分の自由な意志で善を行うことはできないのです。

 また、自分は善人であり善をなすことができると思っている人(自力作善の人)は、本当は煩悩にまみれた悪人なのに単に勘違いをしている人ということになります。

 自分は自制心がある、阿弥陀様に頼る人間は弱い人間だと考える人もいるかもしれません。

 しかし、それはその人がまだ自分の真の限界というものに突き当たっていないからとも言えるのです。

 人間は神や仏ではないので、完全にはなりきれない弱い存在です。だから、「私は善人です」という自信満々の人より、私は欲望に負けてしまう悪人なのだと自覚している人の方が、自分の真の姿を知っているということです。

 晩年の親鸞は「自然法爾(じねんほうに)」という境地にいたりました。「あらゆるこだわりをすてて、すべてを自然にまかせきる」という態度です。

「絶対他力」を極限まで突き詰めると、すべてを仏におまかせするという、明け渡した心になれるのかもしれません。