世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、唯円の『歎異抄』を解説する。
「自分は善人だ」と思い込んでいる勘違いの自称「善人」は、実は救われがたい。むしろ「自分は悪人だ」と自覚している「悪人」の方が、仏様の話に耳を傾けるから救われやすいという逆転の発想だ
悪人こそが救われるとは?
平安時代の末期のこと、美作(みまさか)国(岡山)の武士の子として生まれた源空(法然)は、13歳で比叡山に登り、天台宗を学んで精進していました。
法然は善導(ぜんどう)の『観経疏(かんぎょうしょ)』の「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)……」によって阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願の真意をさとり、「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」に帰しました。
念仏をひたすら唱えれば、すべての人が救われると確信したのです。
親鸞は「専修念仏」の教えを慕って法然に師事し、浄土真宗の開祖となりました。
親鸞の悪人正機説は、悪人が救われるということですが、「悪いことをしても救われる」と誤解を受けたようです。
そこで、弟子の唯円が『歎異抄』(異説を嘆く=歎異)で親鸞の教えを説明しなおしました。特に中心的なフレーズが「善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。
意味は「善人でさえ極楽往生できる、ましていわんや悪人は極楽往生できるのだ」ということ。
「善人」と「悪人」が逆なのではないかと思ってしまいますがこれでよいのです。
「しかし、世の中の人は悪人が極楽往生できるなら、ましていわんや善人は当然極楽往生できるでしょうと言う。これは一見正しそうに思われるが、他力本願の考えに合っていない」(同書)
これについて『歎異抄』では、「そのゆえは、自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」と記されています。
ここでは、「他力本願」と「自力作善」という用語にポイントがおかれています。
すべてをゆだねることで心がやすらかになる
今の世の中では「他力本願」というのは、あまり良い意味で使われていません。人任せという主体性のないあり方として解釈されています。
ところが、本来は「他力本願」こそが、真の人間のあり方を表現しているといえましょう。
というのは、人間は煩悩に翻弄される弱い存在であり、自分の力で自分を救うなどとは、むしろ大それた考え方だといえるからです。
弱い存在であるからこそ、それを自覚して、仏という超越的な存在に任せるしかないのでしょう。
さらに、親鸞の説いた「絶対他力」とは、実は信心もまた仏様から与えられているという意味です。
信心というのは、「よし! 信じるぞ!」と努力して生まれるものではありません。
しかし、阿弥陀仏はすべての衆生を救いたいので、その信心をも与えてくださるというのです。
つまり、「信じる心も自力ではない他力なのだ」というところまで徹底するのが「絶対他力」です。
結局、人間は自分の自由な意志で善を行うことはできないのです。
また、自分は善人であり善をなすことができると思っている人(自力作善の人)は、本当は煩悩にまみれた悪人なのに単に勘違いをしている人ということになります。
自分は自制心がある、阿弥陀様に頼る人間は弱い人間だと考える人もいるかもしれません。
しかし、それはその人がまだ自分の真の限界というものに突き当たっていないからとも言えるのです。
人間は神や仏ではないので、完全にはなりきれない弱い存在です。だから、「私は善人です」という自信満々の人より、私は欲望に負けてしまう悪人なのだと自覚している人の方が、自分の真の姿を知っているということです。
晩年の親鸞は「自然法爾(じねんほうに)」という境地にいたりました。「あらゆるこだわりをすてて、すべてを自然にまかせきる」という態度です。
「絶対他力」を極限まで突き詰めると、すべてを仏におまかせするという、明け渡した心になれるのかもしれません。
富増章成(とます・あきなり)
河合塾やその他大手予備校で「日本史」「倫理」「現代社会」などを担当。
中央大学文学部哲学科卒業後、上智大学神学部に学ぶ。
歴史をはじめ、哲学や宗教などのわかりにくい部分を読者の実感に寄り添った、身近な視点で解きほぐすことで定評がある。
フジテレビ系列にて深夜放送された伝説的知的エンターテイメント番組『お厚いのが、お好き?』監修。
著書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)、『日本史《伝説》になった100人』(王様文庫(三笠書房))、『図解でわかる! ニーチェの考え方』、『図解 世界一わかりやすい キリスト教』『誰でも簡単に幸せを感じる方法は アランの『幸福論』に書いてあった』(以上、KADOKAWA)、『超訳 哲学者図鑑』(かんき出版)、『オッサンになる人ならない人』(PHP研究所)、『哲学の小径―世界は謎に満ちている!』(講談社)、『空想哲学読本』(宝島社文庫)など多数。
【著者からのメッセージ】
私たちはなぜ本を読むのでしょうか。それは「本は人類が積み上げてきた叡智のアーカイヴだから」です。本は、人に知識や喜怒哀楽すべての豊かな経験を与えてくれる存在です。ときに読んだ人の人生を変えてしまう本だってあるでしょう。
この本で紹介しているのは、本のなかでも特に多くの人に読み継がれていたり、あるいは数千年という時を経ても今なお読まれている本、つまり「名著」です。
「名著」にはそう呼ばれるだけの理由があります。たとえば多くの人が今悩んでいることのほとんどは、この長い歴史上で誰かがすでに徹底的に考えていることです。紀元前という昔に遡っても、人間はやはり人間なのです。だから、もしあなたに悩みや、疑問に感じていることがあるなら、それらの答えのヒントはほぼ「名著」のなかにあるのです。
「目標がないし、やる気も出ない」「思考が乱れて集中できない」「健康なのに、なぜか疲れを感じる」「勉強したいが、どこから何をしたらいいのかわからない」「働いても働いても、楽にならないのはなんでだろう」「歳をとってきて、だんだん楽しみが減ってきた」
そんな悩みは、この本で紹介する「名著」のエッセンスを手に入れればたちまち解決するはずです。自分で思い悩むよりずっと気分が晴れること、請け合いです。
ところで、「名著」の多くは、とても難解で、それでいて分厚いものが多いです。しかし、名著が難解なのには、実は理由があります。分厚い古典的「名著」は、その時代背景と常識を前提として書かれているので、多くの場合、現代の私たちにとっては説明不足なのです。また、その学問世界の専門用語を「知ってるんでしょ?」という前提のもとに書かれていますから、こっちはわかるわけがない。
「名著」は、下手をすると一冊をしっかりと理解するのに20年以上かかります(それでも、さらに疑問は増えていきます)。普通に生きて普通に暮らしている私たちには、そんな時間はありません。つまり、「名著」とは基本的に「読破することができない本」なのです。
人生は短い。だからこそ「名著」をまず、おおざっぱに理解して、興味が出たら原典にあたればよいのです。この本では、古今東西の「名著」のうち哲学から心理学、経済学まで選りすぐった60冊のエッセンスをイラストとともにわかりやすく解説していきます。
※収録した60冊は、『ソクラテスの弁明』(プラトン)、『方法序説』(デカルト)、『実践理性批判』(カント)、『現象学の理念』(フッサール)、『歴史哲学講義』(フッサール)、『ツァラトゥストラはこう言った』(ニーチェ)、『存在と時間』(ハイデガー)、『存在と無』(サルトル)、『自由からの逃走』(フロム)、『社会契約論』(ルソー)、『資本論』(マルクス)、『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)、『グーテンベルクの銀河系』(マクルーハン)、『ポストモダンの条件』(リオタール)、『複製技術時代の芸術』(ベンヤミン)、『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ&ガタリ)、『21世紀の資本』(ピケティ)など。
もちろん原典と比べてその情報量は雲泥の差です(本書の場合、500ページ以上ある本も見開き4ページにまとめているのだから)。でも、なんにも読まないよりずっといいでしょう? そう思いませんか。分厚い本を一冊買って、読まないで部屋に飾っておくより、本書を電車の中で読んだほうがよいのではないでしょうか。
必ずしも時代順になっていないので、どこから読んでもOKです。パラッとめくって、全体を眺め、どんなふうに自分の役に立ちそうかを考えます。それぞれの本は、関連を他のページとリンクしてあります。つながりの意味については、本書の冒頭に収録した「ひと目でわかる名著の関連図」を参照してください。
ぜひ本書を活用して、自由な思考法を手に入れて、人生の難問解決をはかり、明日に向かって進んでください。きっと、すばらしい未来が広がっていくことでしょう。