児童写真はイメージです Photo:PIXTA

障害の有無で分け隔てられることがない社会を作る「インクルーシブ教育」の必要性が説かれている昨今。しかし、大阪では、すでに1970年代頃から障害児や外国籍の子どもが普通学級で共に学ぶことが推し進められてきたのだ。インクルーシブ教育を先駆けて実現していた大阪の原点は、同和教育にあった。多様なバックグラウンドを持つ人たちがつながる共生の社会を作り上げるには、どうすればいいのか。※本稿は、高田一宏『新自由主義と教育改革 大阪から問う』(岩波新書)の一部を抜粋・編集したものです。

教育を受ける権利を
実態として保障するために

 戦後の同和教育は、貧困の中で暮らす子どもの長期欠席対策から始まった。1950年代までの同和地区(被差別部落)には、差別のせいで親が安定した職を得られず、家計を支えるために働く子どもが多かった。学力や学歴を身につけても就職差別にあうのだから学校で学ぶ意味はないと考える人もあった。大方の教師たちは、そのような事情と心情を理解しようとせず、学校を休む子どもとその親を教育に「無関心」だと非難しがちだった。

 1960年頃には「教育を受ける権利」の保障という理念のもと、差別的・排除的な学校の姿勢を正し、義務教育の無償化を求める運動が高知や大阪などで起きた。義務教育の教科書が無償になったのは1963(昭和38)年度だが、この措置には同和地区から広がった運動が大きく影響したといわれる。

 教育を受ける権利の保障を目指す運動は、同和対策審議会答申(1965年)と同和対策事業特別措置法(1969年)をきっかけにさらに広がった。この頃、大阪では、同和地区を校区に有する学校を避けて遠くの学校に通う「越境就学」が大きな問題になった。

 越境の背景には差別意識だけでなく学校の教育条件の劣悪さもあったことから、保護者や保護者と連帯する教師は、学校設備の改善や特別の教員加配(各校の教員定数は義務教育標準法にもとづいている。その定数に上乗せして教員を配置することを「加配」という)を行政に求めた。当初、教職員の加配は西日本のいくつかの府県にとどまっていたが、1970年代には全国的に行われるようになった。

 2001年度に国の同和対策事業は終結した。同和地区を校区に有する学校への加配は不登校対応の加配などと統合されて、児童生徒支援加配に再編された。この加配は「学習進度が著しく遅い児童又は生徒が在籍する学校及びいじめ、不登校、暴力行為、授業妨害など児童又は生徒の問題行動等が顕著に見られる学校等、特にきめ細かな指導が必要とされる学校」(2002年4月1日文部科学省財務課長通知)に措置されるものである。

 現在、この加配は、外国から来たばかりの児童生徒のための特別な日本語指導、社会福祉の専門職・専門機関との連携、不登校の子どもの支援などに幅広く活用されている。