「特別扱い」と「ひいき」とはまったくの別物である。教育を受ける権利はすべての人が等しく持っている。しかし、現実には、差別や貧困によって権利が侵害されている。それを放置していては、権利は「絵に描いた餅」にすぎない。だから、特別の手立てで権利侵害の原因を取り除き、権利を実質的に保障すべきだというのが「公正」の考え方である。

 例えば、障害者基本法は差別の禁止だけでなく「合理的配慮」も求めている。「合理的配慮」とは障害の有無に影響されることなく、すべての人々が平等に社会生活を送れるようにするために様々な障壁(バリア)を取り除くことを意味する。公共施設にスロープやエレベーターを設置することは、誰もが等しく「移動の自由」という権利を享受するために必要な「合理的配慮」である。先述した同和地区を校区に有する学校への教職員加配も、教育条件を充実させるための「公正」の理念にのっとった施策の先例である。

大阪府内の小・中学校に
開設された「民族教室」

 さて、同和教育からの「展開」とはどのようなものだったのか。具体的にみていこう。

 1970年代のはじめ、在日朝鮮人の子どもたちが朝鮮の文化や言葉を学ぶ「民族教室」が大阪府内のあちこちの小・中学校に開設された。子どもたちが自分たちにつながる文化や言葉を学ぶ権利を保障しようという考えからである。通名(日本名)ではなく本名(民族名)を呼び・名のる取り組みや、学校全体で朝鮮人への差別と人権について学ぶ取り組みも始まった。1990年代になると、在日外国人の多様化・増加の事態を受けて、在日朝鮮人教育は在日外国人教育へと裾野を広げた。この頃に教育現場で広がっていったのが「ちがい(違い)を豊かさに」という言葉である。

 この言葉は、「ちがい」を理由とする差別・排除をなくし、「ちがい」が尊重される学校と社会をつくるという理念を表している。ニューカマー(1980年頃から増えてきた外国人の総称。在日朝鮮人をはじめとする「オールドカマー」と対にして使われる)の教育でも、大阪には、日本語や日本文化の学習とともに母語・継承語や自分につらなる文化の学習を大事にする風土がある。それは、マイノリティに適応や同化を迫るのではなく、多様性に敬意が払われる学校と社会をつくろうという考え方があるからである。