「たしかに、そうかもしれない。こうやって穏やかな食事の時間をもてるのもありがたいし。そういうふうに視野を広げると、自分の悩みは贅沢なのかもしれませんね」
この話のあと、息子さんの表情は少しやわらかくなっていました。
もちろん、私との対話だけでいま向き合っている悩みが簡単になくなるわけではありません。人生の第1ステージ(編集部注/老いや死を強く意識する前の、人生において成長を感じている時期のこと)にいる彼にとって、学業が順調でなく、周囲に取り残されていると感じているなら、それは大きな問題です。
大学に行けばまた厳しい現実を目の当たりにして、気持ちがすさんでしまうかもしれません。
それでも、1日の始まりに、平和で安全な世界に暮らしているいまが当たり前ではないのだと意識して、感謝の気持ちをもつことは、人生を少し豊かにしてくれるでしょう。
「かわいそう」の裏にある
優越感の危うさ
ガチャの例は誤解を招くかもしれませんので補足します。平和で安全な世界に生きているのを感謝することと、困難に満ちた世界で生きている人に対する優越感をもつこととは異なります。
一時的に優越感で満たされたとしても、いずれ自分を傷つける刃として跳ね返ってくるかもしれません。その人の環境が困難に満ちた世界になったとき、「自分は恵まれていない立場になった」と、優越感は劣等感に変わるでしょう。
あるいは、その厳しさが身にしみると、優越感を感じていた相手の気持ちを思いやり、「以前の自分はなんと思いあがっていたんだろう」と気づくかもしれません。
数年前に広島平和記念資料館を訪れたとき、当時の状況が描写された展示に涙が止まりませんでした。多くの方が被害にあわれたことを事実としては認識していましたが、経験されたひとりひとりの物語を想像すると、その悲惨さがこころにリアルに迫ってきました。
被害者の方には、言葉では表せないほどの苦しみや悲しみ、怒りがあったのだろう。これはわずか約80年前(わずかというのは私の主観ですが)に起きたことなのだ、と。
この現実は他人事ではなく、現在の自分が住んでいる世界の平和も油断していればいつ失われるかわからない――。このときの私のこころに優越感はなかったと信じたいです。