健康についても同様です。自分が健康であるのが当たり前だと思っていると、病気の人を目にしたときに「かわいそう」と感じるかもしれません。「かわいそう」の奥には、病気の人は不幸で自分は不幸ではないとの前提があり、優越感が裏にあります。
「ケアをしてあげる」という表現を
指導医が修正した理由
患者さんが「かわいそうと思われたくないので、がんになったことを周囲に知られたくない」と言うのもよく聞きます。さらに、「じつは私も昔、がんになった人をかわいそうだと思って、ほかの人と興味本位のうわさ話をしていたんです」と打ち明けられる場合もあります。
清水 研 著
そういう私も、若い頃は「病気の人はかわいそう」と思っている節がありました。2003年に国立がんセンター(現・国立がん研究センター)の研修に応募したとき、願書に「苦しんでいる人にケアを施せるようになりたい」と書いたのですが、当時の指導医に「苦しんでいる人のケアができるようになりたい」と、表現を修正されたことを思い出します。
「施す」という表現には、病をもっている人を下に見ている視点が込められています。当時の自分を恥ずかしく感じる一方で、医学部での教育を含めて、人間の現実を知る機会がない場合、そうなってしまうのも自然な成り行きかもしれません。
医療者などの対人援助職のなかで、「ケアをしてあげる」「治療してあげる」など、「患者さんに○○してあげる」という表現をする人がいます。あまり意識しておらず、先輩の言葉づかいをまねただけかもしれませんが、このような表現には優越感が込められており、「かわいそう」と同様、大きな違和感が私にはあります。
このような考え方には、「健康な人」と「病気の人」が別個に存在するという前提や、自分は「病気の人」にはならないとの思い込みがあります。厳しい表現をあえて使うと、この想定はあまりに世間知らずであり、楽観的すぎるのではないでしょうか。だれでもいつ病気になるかわからない、という現実を知っておくことが大切だと思います。