「いつも気を使い過ぎて、心が疲れてしまう」「このままで大丈夫なのか、自信がない」と不安になったりモヤモヤしてしまうことはないでしょうか? そんな悩みを吹き飛ばし、胸が晴れる気持ちにしてくれるのが『精神科医が娘に送る心理学の手紙――思い通りにならない世の中を軽やかに渡り歩く37のメッセージ』です。悩む人たちに40年以上向き合ってきた精神科医が、自分の娘に「どうしても伝えたかったこと」を綴った本書は、韓国で20万部を超えるベストセラーとなりました。本記事では、その内容の一部を紹介します。
![【心が疲れたら】どうしようもないほど憂鬱になったとき、気分をスッキリさせる1つの方法](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/e/6/1000/img_e6efc4f6af46845fccc9e941f62f5285139680.jpg)
しばらく生きる速度を落として、人生を振り返る
憂鬱に陥る因子はさまざまである。
幼い頃に親から虐待を受けたり、いじめなどたび重なるストレスにさらされてきたりした人たちも、深い憂鬱に陥りやすい。
幼い頃は、親や状況、対象に対して怒りや恨めしさを感じても、自力でその苦難を打開することができなかった。
その頃に刻まれた自分の無力さと、そして世間に対する記憶は大人になっても上書きされることがない。彼らは絶えず、「自分の力ではどうすることもできない」とあきらめてきた。
いわゆる「学習性無力感」だ。
足をクサリでつながれた子ゾウは、クサリを引きちぎる力が十分に備わった大人になってもそれを試みようとしない。
このように、無力感を学習してしまうと、そこを打開する力が十分にあるにもかかわらず、努力しようと思わなくなるのだ。
この無力感というのは、なかなか手ごわいもので、自分の人生なのに主体が自分ではなくなり、「自分は状況に応じて流されるひ弱な存在である」と思い込まされてしまう。
こういう人たちがストレスに直面すると、出口がないように考えるため、深い憂鬱、抑鬱状態に陥る。
一方で、万能で何事もテキパキとこなせる人たちも、意外に深い憂鬱に陥ることがある。
彼らが陥るのは、主に恥ずかしさや屈辱からくる憂鬱だ。
はた目には多くの成功を収めたように見える人でも、自己愛が強すぎると、理想に届かない自分のことがいつも情けなく、恥ずかしく映る。
彼らの世界は白か黒しかなく、仕事に対しても成功か失敗か、人を判断するときも善人か悪人しかない。
しかし、失敗の伴わない成功も万人から愛されることも、この世で可能なわけがない。彼らは結局、小さくても失敗に直面することになり、「やはり自分はダメだ」と、深い憂鬱に陥ってしまうのだ。
自分に対する処罰の基準が厳しい人たちも、憂鬱になりやすい。
彼らの特徴として、「やたら良心的である」という点が挙げられる。ゆえに彼らは「自分の成功の中に潜む競争心や攻撃性も罰を受ける対象である」と無意識のうちに思い込んでしまうのだ。
自分に対してひどく批判的で、幸せを感じるとむしろ不安になる。
ゆえにすすんで苦しいほうを選び、理不尽な仕事を引き受けたりもする。
そのせいだろうか。彼らが世界中の重荷をひとりで背負い込んでいるような、いつも浮かない顔をして元気がないのは。
少しリラックスして憂鬱な気分を味わってみる
「私はダメな人間だ」「自分ではどうすることもできない」「私には幸せになる価値もない」……自分に向けられた冷ややかでネガティブな視線。これが憂鬱な気分の背景だ。
しかし、それが分かっているならば憂鬱から抜け出すことも難しくないように思える。
感情は主観的なもの。自分に向ける視線の角度を変えれば、感情が変わるからだ。
もちろん、これが言うほど簡単ではないのは百も承知だ。
長い時間をかけて凝り固まった価値観や考え方を変えるのは、一朝一夕にできることではない。
だからこそ、憂鬱な状態が長びいていると思ったら迷わず助けを求めてほしい。
よく、「うつ病は心の風邪」などというが、死に至らしめることもある恐ろしい風邪もあることを忘れないで。
それに加え、最近の医学界では、重度のうつ病を「脳の生物化学的なバランスが崩れた病気である」ととらえて、効果的な治療法を開発しているのだ。
もし、あなたの近くにうつ病で苦しんでいる人がいたら、ためらわず病院に行くことを勧めてあげてほしい。
病気というほどの憂鬱でないなら、憂鬱な気分や状態をそれほど恐れないでと伝えたい。
憂鬱とは、「今、私はとても苦しい」「あまり私に冷たくしたり厳しくしすぎたりしないで」と訴える心の叫びだ。
失敗に容赦ない親に育てられた子どもが好奇心をなくしてしまうように、自分の中にいる監視官が厳しすぎて、「このままじゃ生きる喜びを失ってしまうよ!」と警告するサインでもある。
だから、そんなときは、しばらく生きる速度を落として、自分と自分の人生を振り返る時間を持つといい。気付かないうちに大切な何かを失ってはいなかったか、振り返ってみなさいという意味だ。
「成功している自分」や、「道徳的ですばらしい価値を追求する自分」も大切だが、「自由で元気いっぱいに、ただ思うままに生きている自分」も大切なのだ。
そのバランスを取り戻せれば、憂鬱も自然に遠ざかる。
あなたは、憂鬱をテーマにした映画や文学作品がなぜ多いのか考えたことがある?
作家の中には、憂鬱がクリエイションの源泉であるという人も少なくない。
きっとそれだけ、憂鬱が生きる本質や人生の中心、自分の要に人を導いてくれるからではないかと私は考えている。
だからもし、あなたが憂鬱になったときは、少しリラックスして憂鬱な気分を「味わって」みるのも悪くないと思う。
底なし沼だと思っていた憂鬱な気分にも、底がある。
その底を蹴り上げて再び水面に浮かび上がったとき、目に見える世界は以前よりずっとキラキラして美しいのだ。
そう考えたら、憂鬱の沼だって恐れる必要はない。
「憂鬱の沼」は、「思考の沼」そのものなのだから。
(本記事は『精神科医が娘に送る心理学の手紙――思い通りにならない世の中を軽やかに渡り歩く37のメッセージ』の一部を抜粋・編集したものです)