それは、どこかに客観的に存在するわけではありません。だれか他人がすべてを知っているわけでもありません。

 たとえば、親は子どもの頃のことは知っていても、大人になってからのことはほとんど知らないでしょうし、子どもの頃でも学校であったことや友だちとの間であったことはほとんど知らないはずです。

 さらに言えば、家にいる間のことでも、出来事は知っていても、本人がどう思っているか、何を考えているかはよくわからないでしょう。

 親しい友だちは、自分との関わりの場で起こったことは知っていても、家でのことは知らないでしょう。家でのことも含めて、こんなことがあって、こんな思いになったというような話を聞くことがあっても、すべての生活場面での出来事やそれにまつわる思いを知っているわけがありません。

 恋人や配偶者は、日頃の出来事を報告し合ったり、日頃の思いを語り合ったりして、お互いによく知っているつもりであっても、わざわざ二人の間に持ち出すことでもないという出来事については知りようがないし、仕事上のことや実家の親のことなどを逐一話すこともないでしょうし、内面で思っていることをすべてさらけ出し合うわけでもないでしょう。

 そうなると、自分の人生について十分知っているのは自分だけということになります。だからこそ、自伝的記憶を豊かにすることが大切になるのです。生きてきた自分は今ここにいるわけですが、その自分の生きてきた軌跡は自伝的記憶の中にしか存在しません。自伝的記憶こそが自分の人生なのです。

 ゆえに、自分自身を知るためには自伝的記憶をたどる必要がありますが、長年生きていると記憶が薄れ、はっきり思い出せないことも多くなります。そこで、ときどき自伝的記憶を振り返り、過去の出来事やそれにまつわる思いについての記憶へのアクセスをよくすることが大切になるのです。

 そのためにも過去を共有できる親しい友だちとの語り合いが必要といえます。過去の出来事や当時の思いについて語り合うことで、自伝的記憶へのアクセスがよくなります。それは自伝的記憶が豊かになるということでもあり、自分の人生が豊かになるということにもなるのです。