明治期の大実業家2世の3人が語り合った「我々はおやじより苦労している」
 1951年6月5日発行のダイヤモンド臨時別冊「財界人物戰前・戰後」に、財界二世鼎談と題された記事がある。出席しているのは藤山愛一郎(日東化学工業社長:1897年5月22日~1985年2月22日)、森曉(日本冶金工業社長:1907年6月19日~1982年2月12日)、諸井貫一(秩父セメント社長:1896年1月11日~1968年5月21日)の3人である。いずれも、明治期から鳴らした実業家を父に持つ2世経営者たちだ。

 藤山の父は三井銀行から芝浦製作所所長となり、後に大日本製糖社長はじめ多くの企業の経営に携わり藤山コンツェルンを築いた藤山雷太。森は、日本沃度(後の日本電気工業)を中心に電力業、鉱業など関連業種への多角化を行い、森コンツェルンを築いた森矗昶の長男。諸井は、渋沢栄一の支援を受けて日本煉瓦製造の経営から秩父セメント、秩父鉄道の社長を兼任してセメント王と呼ばれた諸井恒平の長男である。

 2世経営者としての苦労や失敗談はどれも興味深いが、戦後間もない時期になされた会話であることにも注目したい。1951年といえば、まだ日本は連合国軍占領下にあり、主権を回復していない。多くの経営者が戦前戦中に戦争に協力したとして公職から追放されていた時期だ。これらの旧リーダーに代わって、新世代の経営者が日本経済復興の中心に躍り出ていた。

 司会者が「世間では戦後の人物は小粒になったといいますが……」と水を向けると、「われわれは日本始まって以来の苦労をなめている最中で、あと数年たてば今苦労している中から相当な人が出てくる」と言う諸井に、森が「非常にいい人が必ず出ると思う。何年かたったら」と返している。藤山も、むしろ「最近4、5年間の経営の方が、戦前よりよほど難しい」と話す。

 そして藤山は、父親世代は「時間に余裕があった」と指摘する。その例として、父・雷太が上司である渋沢栄一から稟議書に判をもらうために、渋沢が東京の新橋や柳橋の花街で遊んでいる間、隣の部屋で何時間も待っていたという逸話を挙げている。時代を経るにつれ、経営という仕事がどんどん忙(せわ)しなくなったというのは明らかな事実であろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

あの年代のおやじさんは
大体叱りっぽい

――今日はお父さんのことなどを中心にいろいろ面白いお話を聞かせていただきたいと思いまして……。

「ダイヤモンド臨時別冊」1951年6月5日号1951年6月5日号より

藤山 諸井さん、お父さんが亡くなられたのは……。

諸井 今から10年くらい前です。

 私もやはり10年前、昭和16年でした。

諸井 16年の何月ですか。

 3月……。

諸井 私のおやじは2月です。

藤山 昨年暮れにおやじの13回忌をやりました。亡くなるまで、終始、子供扱いされましたね。

諸井 お互いに……。藤山さんのお父さんはお幾つでしたか……。

藤山 77の喜寿の祝いをやる前年でした。

諸井 私のおやじは80でしたよ。

 私のところは58。

諸井 それじゃ、一番、子供扱いするときで……。

 僕の方は早く死んだが、叱られるのはまとめてやられた。

藤山 短時間にうんと……。

 私のおやじは他人に対しても度胸を決めて叱りましたね。だから自分の子供に至っちゃ、全然人間と思わんような叱り方でした。

藤山 まぁ、あの年代のおやじさんというのは大体叱りっぽいんじゃないのかな。私など毎日のように、叱られたものですよ。ただ存外、大きなしくじりをやってこれはとてもひどく叱られるだろうと思うときには、それほどのことはなかった。内心ビクビクしているときは、案外叱らない。簡単に済んでしまう。

 私なんかもそうでしたね。