1993年5月1・8日合併号 セコム会長 飯田亮
 飯田亮(1933年4月1日~2023年1月7日)は、29歳で日本警備保障(現セコム)を創業した。東京オリンピックで選手村などの警備を一手に担い、日本初となる民間の警備保障会社として、いきなり業界のリーダーとなった。

 しかし、「週刊ダイヤモンド」1993年5月1日・8日合併号で、飯田は当時を振り返り、「創業3年目にして、会社の死を予感した」と語っている。警備保障サービスという業態のニーズの大きさを実感するにつれ、社員がどれだけいても足りない。このままのビジネスモデルで続けても、会社の存続が危ぶまれると気付いたというのだ。

 そこで、遠方通報監視装置とデータ通信ネットワークによる機械警備のシステムを開発、構築した。その後、企業向けのオンライン安全システムを一般家庭にも広げ、ホームセキュリティーという市場を開拓できたのも、機械警備にいち早くシフトしていた実績があってこそだ。

 その後のセコムの成長は周知の通りだが、この方針転換には当時、社内のほとんどが反対だったという。「社長は若いから物事がよく分かっていない」などという意見が大半で、4年がかりで社内を説得したというから、若いベンチャー企業のトップも楽ではない。

 1983年に、ようやく浸透した日本警備保障という社名をセコムに変えると飯田が社内に提案したときも、社内から猛反対に遭ったという。しかし飯田は当時、単なる警備業から、「安全・安心」で「快適・便利」に暮らせる社会をつくる「社会システム産業」という新たなサービス業態に転身するという思いを持っていたため、このときも反対を押し切ったという逸話が残っている。

 今に至る変革と成長の原点は、創業3年目の強烈な危機感にあったということだろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

成長市場にありながら
健康を害されているような危機感

「週刊ダイヤモンド」1993年5月1・8日合併号1993年5月1・8日合併号より

 セキュリティーの方法を、人から機械に切り替える時期、私は会社としての死を予感していた。

 1962年に29歳で日本警備保障(現在のセコム)を創業してから3年後、32歳のときのことだ。

 65年に入って、はたから見ればセコムは育ち盛りの少年期みたいな会社だった。 東京オリンピックでの警備を契機に、わが社の事業が世間に認知され始めて、警備ビジネス全体でも3倍くらいの勢いで伸びていた。需要に追い付かない状況でしかも利益率も高かった。

 そんな成長市場にありながら、私にはジワジワと健康を害されているような危機感があった。