
著者のオーコンナーは、同社の重役陣を「14人のオリンポス山の神々」と呼び、「大統領が使い走りする用向きの筋書きを作る人々」「俸給は比較的お粗末な者」「個人的な金銭欲や名声とは無縁な神秘的な存在」「巨額の俸給や高い官職といった二義的に重要な事柄に時間を浪費するには、あまりに忙しすぎる人々」と表現し、ずうたいの大きい世界企業の経営会議が陥りがちな姿だと指摘している。
1977年1月に田坂輝敬前社長の急逝に伴って新日本製鐵(現日本製鉄)社長に就任した斎藤英四郎(1911年11月22日~2002年4月22日)のインタビューが、「週刊ダイヤモンド」77年7月23日号に掲載されている。新日鉄は70年に八幡製鐵が富士製鐵を合併して発足した。八幡製鐵・富士製鐵はいずれも、戦後の財閥解体の一環で解体された半官半民の国策会社である日本製鐵を前身とし、国内で1位と2位の規模を持つ大手高炉メーカーだった。この再編劇は、公正取引委員会が両社の合併は独占禁止法に違反する疑いがあるとして合併否認勧告を出すほどのインパクトを持つ出来事だった。
その巨大企業のトップに立った斎藤に対し、インタビュアーの質問は「オリンポス山の神々について伺います」という言葉から始まる。当時の経営体制は、大合併を主導した永野重雄が名誉会長、初代社長の稲山嘉寛が会長、斎藤と10人の副社長という陣容だった。この体制で果たして迅速・的確な経営判断ができるか、というのがインタビューの骨子である。上意下達、下意上達の組織づくりについて、後に経団連会長まで上り詰める“新社長”が丁寧に答えている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
「オリンポス山の神々」
という意識はない
――今日は、オリンポス山の神々について伺います。
それは永野名誉会長、稲山会長、私と副社長という意味ですか。
――そうです。
そういう例えは初めて聞きましたけど、あまり深い意味はなかったんですよ。オリンポス山の神々の話になるようなことはなかった。

私は、この1月に社長に就任しましてから各製鉄所へ行って従業員、組合員関係会社の幹部に会い、それから県知事、市長さんたちにあいさつ回りをして話を聞き、いろんな構想を練ったわけですが、そのあいさつ回りの過程で、四つの大きな製鉄所、つまり八幡、君津、名古屋、大分は副社長に統制していただいて、その人を通じて直接に私なり、会長の耳に入るようにしたい、と決意したわけです。それぞれが従業員の数、あるいは生産財貨の額という点で、やっぱり地方、地方の責任ある経済単位になっているものですからね。
もう一つは、これまで決して技術屋をないがしろにしていたわけではないんですが、結果的に技術屋の社長がおらなかった。技術の最高峰として副社長はぜひ東京と作業所(製鉄所)に2人持ちたいと考えた。
そうすると、技術屋が2人と事務屋が8人。作業所には技術屋1人と事務屋が3人出ますと、本社では5人の事務屋と1人の技術屋の6人ですね。6人という副社長の数は、私は決して多いとは思わないんです。
技術は一りの人に全部見てもらうにしても、事務屋関係で販売、購買、経理、企画、私がいま非常に重点を置いてるエンジニアリング本部、海外の事業、国内の工作その他機械関係、これでちょうど5人欲しくなるわけです。