自分の生き方や置かれた状況に「悩む人」がいる一方で、同じ環境にいても「悩まない人」がいます。ではどうすれば、「悩みやすい不幸体質」を卒業して、「絶対に悩まない人」になれるのでしょう。
その方法を教えてくれるのが、書籍『不自由から学べること』です。12歳からの6年間を「修道院」で過ごした著者が、あらゆることが禁止された暮らしで身につけた「しんどい現実に悩まなくなる33の考え方」を紹介。悲観でも楽観でもない、現実に対するまったく新しい視点に、「現実の見方が変わり、モヤモヤがスッと晴れた」といった声が多数寄せられています。この記事では本書より一部を抜粋・編集し、「現実に前向きになれる考え方」を紹介します。

他人から悪意を向けられたら
人間関係には必ず摩擦が生じます。
外見はもちろん、人それぞれに思考や価値観、信条などの違いがあり、他者とのあいだに「ズレ」を感じることは、もはや必然です。
ですがそれを知らずに、こちらを変えようとしてくる人もいます。
敵意や悪意を向けたり、ときには実力行使で手を出してきたり。人として未熟なおこないではありますが、自分がそんな被害を受けたとき、こちらも相手を憎み、つい報復したくなる気持ちが芽生えてくるものです。
「報復攻撃」を推奨する旧約聖書
勧善懲悪ものの昔話などでも、「復讐(ふくしゅう)」するシーンは多数登場します。
聖書でもありとあらゆる権力争いや殺しあい、騙しあいの逸話が出てきます。人間とは、もう何千年も前からそういう生き物なのでしょう。
そして、ときに他者への報復攻撃は正当化されます。じつは神の教えとしても、長らく「やり返す」ことは正当化されてきました。
「目には目を、歯には歯を」という有名な言葉があります。紀元前にハンムラビ王が制定した『ハンムラビ法典』に記載されている言葉です。
この言葉はもともと、旧約聖書に出てきたものなのです。
ここから、同じ害を同じだけ報復するべきだという考えが生まれました。
右の頬を打たれたら、左の頬も向ける
ですが、たとえ自分に悪意を向けてくる人であっても、受け入れてほしい。
そう考えたのがイエス・キリストでした。
新約聖書にはこうあります。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
なぜ同じ聖書なのに、言っていることが違うのでしょう。
それは、「聖書」には2種類あるからです。イエス様が登場する前の聖書が『旧約聖書』、イエス様の教えをまとめた聖書が『新約聖書』です。
「旧約」とは古い契約という意味で、キリスト教徒の人たちはキリスト「以前」の教えを『旧約聖書』と呼んでいます。よって、これはキリスト教における呼び方であり、ユダヤ教にとっての聖書は一冊しかありませんし、旧約とも言いません。そのため、新約と旧約では内容が異なっています。
ですから新約聖書では「旧約聖書では“やられたら、やりかえせ”と言われているけど、復讐はやめて愛の人になろうよ」と書かれているわけです。
「やり返す」ことはやめて、ただ「やり過ごす」
自分の感情や恨みに固執をしていると、やがて自分を見失い崩壊します。
打たれても受け流し、相手にしない。
他人に無害であり、寄り添い、ゆるし、相手を変えようとせず放っておく。
それも、愛のひとつなのではないか。
私はキリストの教えを、このように解釈しています。
許せないことがあったとき、無理に相手を受け入れる必要はありません。
大切なのは「やり返さない」ことです。
復讐や恨みに駆られることは、自分の人生をさらに苦しめ、不自由なものにしてしまいます。
やり返しはせず、自分の感情の嵐や大波をただやり過ごすという方法もあるのではないかと思うのです。
(本稿は、書籍『不自由から学べること』の内容を一部抜粋・編集して作成した記事です。書籍では他にも、「悩まない人になれる考え方」を多数紹介しています。)