自分の生き方や置かれた状況に「悩む人」がいる一方で、同じ環境にいても「悩まない人」がいます。ではどうすれば、「悩みやすい不幸体質」を卒業して、「絶対に悩まない人」になれるのでしょう。
その方法を教えてくれるのが、書籍『不自由から学べること』です。12歳からの6年間を「修道院」で過ごした著者が、あらゆることが禁止された暮らしで身につけた「しんどい現実に悩まなくなる33の考え方」を紹介。悲観でも楽観でもない、現実に対するまったく新しい視点に、「現実の見方が変わり、モヤモヤがスッと晴れた」といった声が寄せられています。この記事では本書より一部を抜粋・編集し、「現実に前向きになれる考え方」を紹介します。

決して褒められることのなかった修道院時代
キリスト教では「他者からの評価」に重きを置いていません。
約6年間いた修道院ですが、褒められた記憶がほとんどありません。
成績が良かろうが表彰されようが、「頑張ったのですね」とは言われても、「素晴らしいです」「よくやりましたね」といった評価を受けることはありませんでした。
個人に対する賞賛はあれども、他者と比較したうえでの評価はなく、反対に「調子に乗ってはいけません」と釘を刺されることが多かったように思います。
「承認欲求」で動いてはいけない
高校1年生のときに手話の全国大会で入賞して、テレビ取材のオファーが来たこともありましたが、シスターによって断られました。
同級生や後輩からファンレターをもらったこともありましたが、それも「捨てなさい」と言われました。
きっと、相対的な評価は人間の根源的な価値ではないと伝えるためだったのでしょう。 いわゆる「承認欲求」を捨てさせたかったのだと思います。
社会の役に立つことで他者から認められることもありますが、その評価をあてにしてしまうと、評価を得られないことには気乗りしなくなってしまいます。
奉仕とは神に仕える者の責務であり、褒められるからやることではありません。その気持ちを養うために、修道院では「褒める」という行為がなかったのだと思います。
むしろ、褒められたときこそ慎ましくいようという心持ちに変化していきました。
自分を評価できるのは自分だけ
この教えのおかげで、私は他者からの評価に一喜一憂せず、自分の価値を自分で決められるようになりました。
たとえばブランドを立ち上げた際、可愛い、面白いと言ってくださる人もいれば、よくわからないと言う人もいましたが、そういった他者からの評価に惑わされずにすみました。
人間、誰しも他人から評価されたい、褒められたい、他者より優れていると証明したい欲求があって当然です。
私も自己肯定感が低いため、つい他者からの評価を求めてしまいそうになります。
ですが、自分の価値を他者からの評価に委ねてしまうのは危険なことです。
ころころ変わる他人の心情に委ねたりせず、自分の評価は自分でするようにしてください。他人からの評価が良くとも悪くとも、それに振り回されず、いつも謙虚であろうと努めるのです。
そして自分の定めた目標を達成できたら、自分を小さく褒めてあげましょう。
そうやって自分の価値を自分で決められる人が、真に「豊かである」と言えるのではないでしょうか。
(本稿は、書籍『不自由から学べること』の内容を一部抜粋・編集して作成した記事です。書籍では他にも、「悩まない人になれる考え方」を多数紹介しています。)