「いつも浅い話ばかりで、深い会話ができない」「踏み込んだ質問は避けて、当たり障りのない話ばかりしてしまう」上司や部下・同僚、取引先・お客さん、家族・友人との人間関係がうまくいかず「このままでいいのか」と自信を失ったとき、どうすればいいのでしょうか?
世界16カ国で続々刊行され、累計26万部を超えるベストセラーとなった『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』から「人生が変わるコミュニケーションの技術と考え方」を本記事で紹介します。

波風を立てたくない
同意するのは反対するより安全だ。
意見の違いがあることは、怖いものだ。拒絶されたり、排除されたりするかもしれないからだ。
理由にかかわらず、集団から疎まれることを望む人はいない。
そして集団の規範から逸脱した意見をもつことは、集団から疎まれることの何よりも強力な理由になりうる。だからこそ、私たちは自分の信念を妥協しようとするのかもしれない。
私の「クリティカルシンキング」講座に参加した若い女性は、この傾向をうまく言い当てていた。
「意見を求められたとき、私はまず様子を見ます。周りの人の話に注意深く耳を傾け、意見を探るのです。他人の考えを理解してようやく、自分の意見をもつ勇気が出てきます」
そして気がつくと、本当は賛同できない意見に同調してしまい、夜は自宅のソファに座って、本心を言わなかった自分に苛立ちを感じるのだ。
一般的に、集団の雰囲気は全員の意見が一致したときに最高の状態になる。
例えば、誰かの誕生日を祝う席では激論を戦わせたりはしたくない。
そのため無意識のうちに当たり障りのない質問をすることで、なるべく波風を起こさないようにする。
それが、物事を友好的に保つための方法だからだ。
人種や政治、宗教、気候危機などに関する質問をすることには、リスクが伴う。
これらのトピックには、個人的な感情や、経験、政治的見解、思惑が強く結びついているからだ。
この種のトピックについての記事を読んだという他愛のないことから始まった会話が、白熱した議論になることもある。
やがてそれは激しい口論に変わり、片方がドアをバタンと閉めて出て行ったり、後悔するようなことを叫んだり、さらには長く気まずい沈黙につながったりする。
純粋な問いを立て、答えを待つ
良い質問、すなわちオープンで、誠実で、好奇心旺盛な質問をすることは、信念に基づいた賭けである。
まず、純粋な問いを立てる。
それを世界に発信し、答えを待つ。余計な情報はつけ加えない。
ある答えを期待したり、アドバイスを盛り込んだりはしない。自分の意見や経験で着飾ることもなく、相手の答えを肯定したり否定したりもしない。
ただしもちろん、相手に反対の意見を述べられたり、せっかくの友好的な会話が気まずいほうに転がったりしてしまうリスクもある。
良い質問は相手のバランスを崩し、会話に緊張をもたらすことがある。
そのため、失礼な質問をしたことを恥じたり、相手を不安にさせたりしてしまったことに罪悪感を覚えるかもしれない。
しかし質問の扱い方を変えれば、こうした罪悪感や恥ずかしさを抱く必要はなくなる。私たちは意図せずに、会話を難しくしてしまっている。
自分の不快感を、質問した相手のせいにする。
子どもたちに、「そんなことを人に尋ねてはダメだよ!」と言う。
ある種の質問に「不適切」「無礼」「個人的過ぎる」というレッテルを貼る。
あるいは、質問にそっけなく答えたり、「それはちょっと答えにくい質問です」と言って無難にかわしたりする。
真摯だが単刀直入な質問をしてしまうと、そのことを咎められてしまうリスクもある。その結果として生じる恥ずかしさは、できれば経験したくないし、繰り返したくない。
だから私たちは、深く掘り下げた、相手を安全地帯から連れ出すような質問を避ける─そのような質問こそが、良い会話と誠実なつながりをもたらす可能性を秘めているのに。
私たちは、非難されるリスクを冒すくらいなら、良い質問をしないほうがいいという「“本当の質問”をしない文化」をつくり上げてきたのだ。
これは奇妙なパラドックスだ。自分の信念や、傷つきやすさ、拒絶や動揺を招くことへのおそれから、本当に尋ねたいことを尋ねようとしないとき、私たちに残された選択肢は一つだけになる。
自分の経験に基づいて、他人の答えを先回りして考えることだ。相手が何を考えているのか、何を感じているのかを決めつけるのだ。
他に選択肢があるだろうか? 本当の質問をしようとしなければ、そうせざるをえなくなる。
(本記事は『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』の一部を抜粋・編集したものです)