いまや世界を代表する“リベラル知識人”となったユヴァル・ノア・ハラリは新刊『NEXUS 情報の人類史』(柴田裕之訳/河出書房新社)で、情報とテクノロジーが人類をどのように変えていくのかを論じている。そこでの問いは、「もし私たちサピエンスが真に賢いのなら、なぜこれほど自滅的なことをするのか?」になる。

「人類は大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するものの、そうしたネットワークは、その構築の仕方のせいで力を無分別に使いやすくなってしまっている」と述べるハラリは、「私たちの問題はネットワークの問題」だという。

 世界的なベストセラーになった『サピエンス全史』でハラリは、人類(ホモ・サピエンス)がネアンデルタール人など他のホモ属との生存競争に勝ち、文明や科学を生み出して繁栄を実現できたのは「虚構の力」だと主張した。このちからは人類を神に近い存在(ホモ・デウス)にもするが、一歩間違えれば世界を滅ぼすことにもなりかねない。

 本書は、「虚構」の負の側面に焦点を当てたものといえるだろう。原副題は“A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI(石器時代からAIまで情報ネットワークの簡単な歴史)”。

わたしたちは不死を手に入れるか、悲観主義者のいうようにAIが暴走し、人類は絶滅するか

『NEXUS 情報の人類史』は第1部「人間のネットワーク」で人類史を情報とテクノロジーから概観し、第2部の「非有機的ネットワーク」と第3部の「コンピューター政治」でAIの影響を論じている。そのなかで注目を集めているのは、産業革命とAI革命を比較したうえでの「予言」だろう。

 産業革命によって西欧諸国は、石炭・石油のエネルギーを解き放った。その後、アメリカ、ロシア、日本がこのテクノロジー革命に追随したが、そこから生まれたのは帝国主義と植民地主義だった。

 大規模な工業生産を行なうためには、資源や原材料を他国に依存しなければならない。この競争に勝ち抜く唯一の方法は、より多くの植民地を獲得して帝国に組み込むことだというのは、当時は常識とされていた。

 インドやアフリカ、中国を植民地にしなければ、競争相手に先んじられ、ついには巨大化した帝国に自分たちが植民地化されるか、滅ぼされてしまう。この「帝国主義」の論理に大多数の国民が同意し、植民地獲得に積極的に参加していたのだ。これについてハラリは、次のように書いている。

 その結果、すでに帝国だったイギリスやロシアのような工業国が大幅に国土を拡張する一方、アメリカや日本、イタリア、ベルギーといった国々は帝国の建設に乗り出した。工業国の軍隊は、大量生産されたライフル銃と大砲を装備し、蒸気の力で運ばれ、電信によって命令を受け、ニュージーランドから朝鮮半島、ソマリアからトルクメニスタンまで、世界中を席捲した。無数の先住民が、こうした工業国の軍隊によって伝統的な生活様式を目の前で踏みにじられた。工業帝国というのはお粗末な発想であり、工業社会を築いて必要な原材料と市場を確保するにはもっと良い方法があることにほとんどの人が気づくまでには、1世紀以上に及ぶ惨めな経験が必要だった。

 広島と長崎に投下された原爆とホロコーストの悲劇によって、帝国主義の「末路」を突きつけられた欧米諸国は、植民地を手放して自由貿易と市場経済にシフトし、人類史上空前のゆたかさを実現した。ソ連は社会主義ブロックでこれに対抗したが、40年あまりで破綻して冷戦は終焉した。

 ハラリによれば、いま起きているのは産業革命に匹敵するか、それを上回る巨大なテクノロジー・イノベーションだ。ハラリは次のように問う。

 人類が蒸気の力や電信を管理する方法を学ぶのに、あれほど多くの恐ろしい教訓が必要だったのなら、生物工学やAIを管理する方法を学ぶのには、いったいどれほど大きな代償を払う羽目になるのか。

 一部の楽観主義者がいうように、わたしたちは代償を払う必要などなく、テクノロジーの果実を享受して繁栄を謳歌し、最終的には不死を手に入れるかもしれない。一方、悲観主義者のいうように、自律した(あるいは意識を獲得した)AIが暴走し、人類は絶滅するかもしれない。

AIという“超知能”がいずれ虚構(共同主観的現実)をつくりだすようになれば民主政は維持できなくなり、わたしたちは「デジタル無政府主義」というアナーキーな世界に放り込まれるだろうPhoto/Tom.Msn&Gafuu / PIXTA(ピクスタ)

 この根源的な問いについては本書を読んで各自で考えてもらうとして、本稿では情報とネットワークの議論を見ていきたい。

「自由」と「民主政」は両立しないのではないか

“nexus”はあまり使われない言葉だが、「連鎖」「結合」のことをいう。『NEXUS 情報の人類史』に通底するテーマは「中央集権」と「分散システム」だが、両者のちがいは情報の流れ方(連鎖の仕方)と自己修正メカニズムにある。

 中央集権的な政治制度(独裁政や全体主義)では、すべての情報がシステムの中央に位置する独裁者に向かって流れていき、そこで下された意思決定によって社会が動く。情報を独占する者(独裁者)は絶対的な権力をもち、寿命が尽きるか、政敵や外国によって武力で倒されるまでその地位にとどまる。

 それに対して民主政(デモクラシー)は分散型で、情報は政治(立法機関)だけでなく、行政や司法、報道機関や民間団体など複数のハブに分散されており、ときに対立することもある。意思決定は民主的な選挙によって選ばれた代表者(大統領や首相)が行なうが、これは一時的なもので民意が変われば退場する。

 ドイツ第三帝国のヒトラーやソ連のスターリン、文化大革命時代の毛沢東、あるいはカンボジアのポル・ポトのように、独裁者は「無謬」とされるため、間違いを受け入れることができない。すなわち自己修正メカニズムがない。

 それに対して民主政は、情報が分散されているため、有権者は複数の政党・政治指導者の主張を比較して、よりよいものを選ぶことができる。すなわち、間違った政策を(選挙によって)自己修正できる。

 中央集権的な情報ネットワークは「固い」システムで、素早い意思決定と強力な社会統制を可能にするが、矛盾や対立を修正する仕組みがないためいずれ瓦解する。それに対して分散型の情報ネットワークは「柔らかい」システムで、意思決定は遅く社会の統制もとれていないが、環境の変化に合わせて変わっていくことができるので耐性が強く永続する。

 このようにして、1980年代にソ連型の中央集権システムは破綻し、リベラリズム(自由主義)とデモクラシー(民主政)を組み合わせたリベラルデモクラシーが唯一の政治体制になった。これがフランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり」だ。

 ところがその後、アメリカやヨーロッパでポピュリズムが台頭すると、「自由」と「民主政」は両立しないのではないかとの疑念が高まった。もしそうであれば、わたしたちは自由をあきらめるか、そうでなければ民主政を「再起動」させて、新しい統治システムに移行しなければならない。――これがテクノ・リバタリアンが提起した問いだ。

 それに加えて、テクノロジーの指数関数的な進歩(とりわけAIとビッグデータ)が社会を大きく変える可能性が視界に入ってきた。ソ連の計画経済のような中央集権の試みが破綻したのは、複雑な市場のネットワークを人間の限られた認知能力で統制することが不可能だったからだ。だがビッグデータをAIが解析するようになれば、複雑なものを複雑なまま理解できるようになる。こうした時代認識と危機感が、ハラリが本書を執筆した動機になるだろう。