「AI(人工知能)が世界を変える」といわれるが、その期待に反して「日々の生活はたいして変わってないじゃないか」と感じているひとも多いだろう。その理由を説明したのがトロント大学の経済学者であるアジェイ・アグラワル、ジョシュア・ガンズ、アヴィ・ゴールドファーブの『AI経済の勝者』(小坂恵理訳/早川書房)だ(原題は“Power and Prediction; The Disruptive Economics of Artificial Intelligence(パワーと予測 人工知能の破壊的経済学)”。

 著者たちの主張を要約すれば、「現在のAIはポイントソルーションとアプリケーションソルーションの段階にとどまっており、ほんとうに世界を変えるにはシステムソルーションに移行しなければならない」になる。

 だがこの話の前に、「AIの本質は予測マシンである」という著者たちのラディカルな主張を紹介しなければならない。そこでまずは、2018年に原書が刊行された『予測マシンの世紀 AIが駆動する新たな経済』(小坂恵理訳/早川書房/原題は“Prediction Machines; The Simple Economics of Artificial Intelligence(予測マシン 人工知能のシンプルな経済学)”を見てみよう。

AIのパラダイムシフトとは「ビッグデータからの予測」を可能にしたこと

 コンピュータとは、突き詰めれば「計算機」だ。アルゴリズムはコンピュータに計算を指示する約束事で、それを複雑・高度化することでたんなる算術計算を超えて、ゲームからSNSまで社会を動かすさまざまな機能をもたせることができるようになった。

 経済学の基本である需要と供給の法則では、たくさんあるものは価格が安くなり、稀少なものは価格が高くなる。計算が安価になれば、もはや人間が算盤や電卓で計算する必要はなくなる。こうして商店のレジは金額を打ち込むのではなく、バーコードをスキャンするだけになった。

 計算は人間の知能の一部で、それをコンピュータにアウトソースできるようになれば、計算に投じていたリソース(資源)を他のことに使えるようになる。計算の価格が下落すれば、コンピュータ(計算機)では代替できない知能の他の要素の価格が上昇するはずだ。

 知能を「記憶・計算・予測・意思決定」に分解すると、ハードディスクがデータを無尽蔵に記憶し、計算が安価に供給されるようになったことで、予測と意思決定の重要性が増す。ここまでが「AI前夜(おおよそ2015年まで)」に起きたことだ。

 著者たちによれば、AIのパラダイムシフトとは「ビッグデータからの予測」を可能にしたことだ。予測とは情報が欠落している部分を埋め合わせていくプロセスで、データから機械学習するAIは「なにが原因なのか」「次になにが起きるのか」という欠落した情報を発見できるようになった。この予測機能は、コンピュータの計算機能とは質的に異なるイノベーションだ。

「AIの本質は予測マシンである」。AIが予測を引き受ける社会はユートピアなのかディストピアなのか?イラスト:mayucolor / PIXTA(ピクスタ)

 コンピュータが計算を、AIが予測を安価かつ大量に供給するようになると、人間の知能に残された役割は「意思決定」のみになる(「予測とは意思決定に必要な入力情報である」)。こうして意思決定の価値が大幅に上がり、それ以外の「予測をする者」の価値が下がるというのが著者たちの基本的な主張になる。

AIが顧客単価に影響がある要因として見つけ出したのは、店内のある特定の場所に従業員がいること、だった

 統計学は回帰分析によって(変数が限られている場合は)強力な予測を提供できるが、対象が複雑になるにつれてその精度は落ちる。データサイエンスのトーナメントでは、2010年代に機械学習の予測が回帰モデルを大きく上回るようになった。

 AIでしか発見できなかった相関関係として著者たちは、「電話料金の請求金額が高い顧客のなかでも、月末よりも月はじめの使用料金が高いケースのほうが、解約の可能性は低い」「週末の長距離電話の使用料金が高く、支払いが滞りがちで、メールを頻繁に利用する傾向のある顧客は、特に解約の可能性が高い」などを挙げている。

 だがここではより印象的な例として、日本における社会物理学の第一人者・矢野和男氏がホームセンターで行なった実験を紹介しよう(『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』草思社文庫)。

 矢野氏はホームセンターの商品棚などに赤外線による場所情報の発信器(ビーコン)を2~3メートルおきに設置したうえで、従業員や顧客に名刺型のセンサーを装着してもらった。これによって店内の人間の動きが詳細に把握できるので、10日間のビッグデータを集めたうえでそれをAIに分析させた。

 その結果、AIが顧客単価に影響がある要因として見つけ出したのは、奇妙なことに、店内のある特定の場所に従業員がいることだった。この「高感度スポット」に従業員がたった10秒滞在時間を増やすごとに、そのときに店内にいる顧客の購買金額が平均145円も増えたのだ。

 しかし、これはたんなる偶然かもしれない。そこで矢野氏は、この結果を検証するために、AIが発見した高感度スポットになるべく多くの時間いてもらうよう従業員に依頼した。すると、滞在時間が1.7倍増えたことで店全体の顧客単価が15%も向上したのだ。これは営業利益率5%に相当し、日本の流通業界の平均的な営業利益率は5%程度なので、利益が倍増したことになる。

 高感度スポットに従業員が滞在すると、なぜ顧客単価が増えるのか。AIはこの因果関係を教えてはくれない。考えられるのは、ある特定の場所に従業員がいることで店内の客の流れが変わり、それまで閑散としていた単価の高い商品の棚での客の滞在時間が増えたことだ。

 だがAIが指定した高感度スポットは、単価の高い商品の棚からは遠く離れていた。なぜそこに従業員がいると、客の流れが変わるのかはよくわからない。また、その高感度スポットに従業員がいることにより、従業員や客の身体運動の活発度も向上したのだが、そのことを説明するのはさらに難しい。

 ホームセンターでの実験をさらに詳細に調べると、より興味深いことがわかった。高感度スポットに従業員がいることで店内の客の流れが変わっただけでなく、接客時間が全般に増えたのだ。

 ところが、顧客が接客された時間の長短は、その顧客自身の購買金額には直接相関していなかった(統計的な有意性がなかった)。しかし、店内で自分以外のまわりのひとたちが接客を受けている場面が多くなると、それを見た顧客の購買金額が増える効果があった。

 これまで接客は、顧客が知りたい情報を与えて購買に結びつけるという直接の効果だけが強調されてきた。だがこの結果は、他の顧客と従業員が活発にやりとりしているのを見ることで賑わいを感じるという間接的な効果の方が、売上に大きな影響があることを示唆している。

 このように、人間には決して見つけられない相関関係を発見する能力がAIにはある。意味のはっきりしない大量のデータを入力して、データの背後にあるパターンや法則性を明らかにするのだ。