自分という「主体」が持てない人々の問題については、これまで本連載第2回や前連載第16回でも取り上げてきました。

 しかし、これとは逆に、「主体」をはっきり持っているがゆえに、組織や集団の中で煙たがられて、理不尽な扱いを受けてしまう人々もいます。また、そのようなことが原因となって、本人も「自分がおかしいのではないか」と疑いはじめ、その結果、「うつ」状態にまで追いこまれてしまうケースも稀ではありません。

 そこで今回は、私たちの属する組織や集団がどのような体質を持っているのか、また、それが私たちの生き辛さとどう関係しているのかという点について、考えてみたいと思います。

ここは「社会」なのか「世間」なのか

――そんなふうに生意気で協調性がないようでは、君はどこに行ってもやっていけないと思うよ。

 Yさんは、過酷な労働条件を課せられ、それに対して異議を唱えた際に、このような捨て台詞を社長から浴びせられ、不当に解雇されてしまいました。

 ここで、「生意気」という言葉が使われていることに注目してみましょう。

 これは、「タテ社会」において用いられる典型的な言葉で、上の立場の人間が下の立場の人間の主張に対して論理的に反論できない際に、感情的に吐き出されるものです。

 しかし、およそ個人主義をベースにした会社という組織形態で雇用されている人間は、雇用者とは雇用契約という対等な「契約関係」にあるはずで、そこに「タテ社会」的な力学が持ち込まれていることは、本来おかしなことだと言えるでしょう。

 ここではまた「協調性」という言葉も用いられていますが、これを実質的に翻訳すれば、「暗黙の空気を読んで、どんなに理不尽だと感じても、ほかの連中のように文句を言わず、黙って従え」ということでしょう。
私たちの社会は、明治維新以降、急速に西洋の制度や概念をとり入れ、近代国家としての体裁を整えてきました。しかし、近代化を急ぐあまり、それらが基盤に据えていた個人主義の精神を理解することはなおざりにされてきたきらいがあります。

 そもそも「社会」という概念は、「主体」としての権利や独立性を持った「個人」が集合した集団を指すものです。その意味からすれば、私たちが所属している様々な組織や集団、そしてその集合体である日本社会の実質は、「社会」というよりは、依然として「ムラ的共同体」の傾向を色濃く残した「タテ社会」的なものであると言わざるをえないでしょう。これは、「世間」と呼ばれているものにほかなりません。