誠実こそ最大の資本
必要になってから近づくのでは遅い

 人脈づくりといえば、華やかな社交やネットワーキングを連想する人も多いでしょう。しかし太郎のやり方は、はるかに緻密で、地道で、戦略的でした。季節ごとの贈り物はもちろん、相手が悩んでいる問題に寄り添う情報や行動を惜しまず差し出し、信頼を積み重ねていきます。その細やかな気配りと洞察力には、感情だけではない計算が宿っていました。

 また、宴席を開いても、そこで商談や見返りを求めるようなことは一切しません。ただひたすら「男芸者」として相手を楽しませ、気持ちよく過ごしてもらうことに徹する。あるいは夜討ち朝駆けで相手の自宅を訪問し、一級品の贈り物を手渡す。そうした気前のよさから、彼は「プレゼント魔」とあだ名されるほどでしたが、そこには明確な目的がありました。

 それは、師と仰ぐ江原素六(教育者・政治家・実業家)からの教えである「誠実こそ最大の資本」の実践であり、信頼という見えない資産を、時間をかけて積み上げる作業だったのです。

小説『ヤマ師』より引用(P101〜102)

 本格的に事業を始めるに当たり、太郎は素六からの助言を求めた。

「先生、この度、会社を起こすことになりました」

「そうか、頑張りたまえ」

「とはいえ、私は商売については素人同然です。是非、先生から商売の要諦を伺いたいんです」

 太郎は真剣な眼差しで江原を真っ直ぐに見つめた。太郎の話に耳を傾けながら、江原は机の上に置かれた細工彫りの文鎮を軽く持ち上げる。金属の冷たさで思考を一つに集中させるかのように撫でたあと、そっと元の位置へ戻し、太郎に問いかけた。

「君自身はどう考えているんだね。商売で成功するために欠かせないこととは何だと思う」

 太郎は少し身を乗り出し、考えながら答えた。

「駆け引きでしょうか。商売相手と対峙するに当たって、最善の策を練り、相手の出方や状況に応じて、自分に有利になるように押したり引いたりすること。私にはまだまだその経験が足りません」

「いや、商売で最も大事なのは、誠実であることだ」

 江原は声を低め、机の上で手を組むと、ゆっくりとした口調で続ける。

「誠実こそが最大の資本だ。駆け引きに長じて相手の優位に立とうというのも確かに必要だが、その中にあっても誠実であることを忘れてはいかん。相手を騙したり、裏切ったりしないこと。信用なくして商売は成り立たず、そのためにはただただ誠実であり続けなければならん」

 その答えに、太郎は言葉を失った。

 太郎の「人間植林」という処世術が長い時間を要するのは、「必要になってから近づくのでは遅い」という思いもあったからです。どんなに親しくなっても目的を口にせず、ひたすら信頼関係だけを築く。そして、いざというときにだけ、駆け引きなしで頼み込む。まさに、太郎にとっての人脈とは、「育てる」ことによって初めて実を結ぶ、植林のようなものでした。

 後に満州で展開した不動産事業や、戦後の石油事業でも、地道に築いた人脈は大いに効果を発揮していきます。

 今なお人と人とのつながりがビジネスを動かす時代において、太郎の「人間植林」は、古くて新しい人脈形成の知恵として、大いに学ぶべきものがあります。真の信頼は、短期的な打算ではなく、誠実な積み重ねの先にある。太郎の行動は、それを証明してくれているのです。

Key Visual by Noriyo Shinoda