広陵高校の暴行事件の発端は、暴行された1年生が部のルールで禁止されていたカップラーメンを食べたことだったという。暴行は犯罪にあたる行為だが、部のルールが法律よりも優先されるかのような状況になってしまうのは、その組織が閉鎖的で、独自の規律・規範で動いているからだ。
集団をまとめるためには規律は必要とされるが、それがスポーツにおいて本来重視されるべき個人の成長を阻害する要因となっているとしたら本末転倒でしかない。
「辞退はかわいそう」でさらに炎上
この件で、93歳の元プロ野球選手・広岡達朗氏が「辞退する必要はない」という独自の見解を明かしたことも話題となった。辞退すべきかどうかは県大会の前にする話で、すでに「憧れの舞台」でプレーしている選手たちに辞退しろというのはかわいそう、という意見だった。
ネット上では広岡氏の発言が火に油を注ぐ形となって批判がさらに加熱したが、この広岡氏の発言は、これまでのスポーツ界の論理を強く感じさせる。
問題を起こした選手への処分や、被害に遭った生徒への対処が充分だったのかという話と同一線上に「憧れの舞台」でプレーする選手たちの感情が置かれてしまう。「グラウンド外の問題」と「甲子園の戦い」を勝手に分け、甲子園をあたかも聖域とするような前提の上で、独自の論理で「スポーツマンシップ」を語る。
このような独自の世界観がまかり通るのだから、これまでも潰されてきた無数の声があるのだろうと推測してしまう。
また指摘しなければならないのは、こうした独自の世界観を共有する大人たちが作り上げたビジネスとしての甲子園大会の中で、高校生の青春が消費されているという側面だろう。
選手はもちろん、応援スタンドの高校生たちも多くは甲子園大会を楽しんでいるであろうし、一生の思い出にもなるのだろう。しかしその「汗と涙の美しさ」への過剰な賛美が、理不尽な体制に異を唱える声を抑圧することにつながっていないか。
大会運営ありき、美談ありき、勝利ありきのスタンスが今回の遅きに失した決定を招いたようにも見えてならない。
疑問や批判の声に聞く耳を持つ風通しの良い運営こそ、健全であるはずだ。