600年続いた大帝国はなぜ滅びたのか? 絶望から国を救った英雄の“たった一つの決断”
悩んだら歴史に相談せよ!】続々重版で好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた。新刊リーダーは世界史に学べ(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説。監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授。最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する。どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載。まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫だ。

【ビジネスリーダー必見】トルコ建国の父が“敗戦”を“最大の好機”に変えた意外な方法Photo: Adobe Stock

激動の時代に現れた英雄

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938年)は、オスマン帝国の軍人であり、トルコ共和国の初代大統領。オスマン帝国領内で生まれ、陸軍士官学校などで学び、陸軍の将校としてキャリアを開始した。第一次世界大戦では、連合国の侵攻を食い止めた功績により英雄視されたが、オスマン帝国自体は敗北を喫し、大戦を終えることに。戦後、連合国の進出によりオスマン帝国領土は大幅に縮小されるが、ケマルは同志とともに立ち上がり、連合国の侵攻を阻止することに成功した。その過程で、600年以上続いたオスマン帝国を終焉へと導き、トルコ共和国を創設。初代大統領に就任。大統領としては、政治と宗教(イスラム教)の分離、男女平等の推進、近代的な学校制度の導入、近代的な工場の建設など、多くの改革を実行し、トルコ共和国の基盤を築き上げた。現代においても、トルコの人々は「アタテュルク(父なるトルコ人)」、または「国父(建国の父)」と呼び深い敬意を表している。

栄光と斜陽の大帝国

かつて、ユーラシアや北アフリカの広大な領域を支配していたオスマン帝国(1299~1922年)

その歴史はじつに600年以上に及びスルタン(皇帝)のもとでヨーロッパ南東部(バルカン半島)、北アフリカ、中東の広範な地域を治める大帝国として君臨していました。

帝国の最盛期には、ヨーロッパのウィーンを二度(1529・1683年)にわたり包囲し、キリスト教世界にとって差し迫った脅威でした。しかし、時代が下るにつれ、オスマン帝国は徐々に衰退の道をたどります。

ヨーロッパ列強との戦争が相次ぎ、支配下にあった各地で独立運動が広がりました。

19世紀にはオスマン帝国が支配していたバルカン半島において新たな国が次々と独立し、かつての栄光は去のものとなっていったのです。

第一次世界大戦と救国の英雄

そんななか、オスマン帝国は1914年第一次世界大戦に突入します。ドイツ・オーストリアと手を結び、「同盟国側」として参戦したのですが、戦局は厳しく、各地で敗北が相次ぎました。

唯一希望の光となったのがガリポリの戦い(1915~1916年)です。イギリス・フランス連合軍の上陸作戦に対して、巧みな防衛戦を展開し勝利を収めたこの戦いで、一人の軍人が頭角を現します。

それが後に「トルコ建国の父」と呼ばれるムスタファ・ケマルでした。

敗戦と屈辱

しかし、彼の活躍もむなしく、戦局は次第にイギリス・フランスなど連合国側の有利に傾き、アメリカの参戦を機に1918年、第一次世界大戦は同盟国の敗北に終わります。

敗戦国となったオスマン帝国は、連合国によって分割統治され、1920年のセーブル条約により、その領土は大幅に縮小。もはや「帝国」と呼ぶにはあまりにも小さな存在へと押し込められました。

ここで、帝国とケマルの立場は大きく分かれます。オスマン帝国は連合国に協力的な姿勢を示し、屈辱的な条約を受け入れました。

祖国解放への狼煙

しかし、ムスタファ・ケマルは、この現実を受け入れませんでした。

「この国の未来は、われわれ自身の手で切り開くべきだ」――そう考えたケマルは、オスマン帝国の都イスタンブルではなく、アナトリア地方のアンカラ(現在のトルコの首都)に新政府を樹立。帝国とは一線を画し、「トルコ人によるトルコの独立」を掲げ、再び戦う決意を固めたのです。

この決断こそが、オスマン帝国の終焉と、トルコ共和国誕生への転換点となります。