テーマは「どうやったらお母さんとお父さんが仲良くなるのか」。でも、小3の私、小1の妹、保育園児の弟で解決法が見つかるわけもなかった。
母は離婚を考え、「養育費も何も要いらないから、子どもだけは私に託して」と父にお願いしたのだが、父は子どもを手放したくはなかったらしく、母の願いを断固拒否。数回の話し合いの末、「上のふたりは小学生ねんし、転校させらんは可哀想やぞ」という父の言葉で、母はまず、弟だけを連れて東京に行くことにした。
その日は秋の遠足の日で、私は母のつくったお弁当と母が選んだお菓子を持って、金沢市内を一望する卯辰山(うたつやま)へと出かけた。遠足の記憶はまったくないが、「玄関を開けてもお母さんはいないんだな」と、涙をこらえて家まで帰ったことだけは覚えている。実際に玄関を開けて「おかえり」と言ってくれたのは、父方の祖母と妹だった。
金沢を襲った昭和56年豪雪が
堀家に新たな変化をもたらす
小学4年生の冬休み、私と妹は東京の母の家へと遊びに行った。
その冬はのちに「昭和56年豪雪」と名付けられたくらいの大雪で、金沢も1メートル25センチの積雪を記録。当然、鉄道は運休し、これをチャンスと思った母は父に電話をかけ、「このまま香織と佐知を引き取りますね」と伝えた。子育てに対して経済的にも精神的にも破綻していた父はそれを了承し、のちに正式に離婚した。父の性格を知り抜き、戦略を練りに練った母の圧勝だ。
離婚した夫婦の中には、相手に子どもを会わせない親もいると聞くが、母は夏休みと冬休みには私たち姉弟を金沢へと送り出した。電車賃は東京~金沢間を母が払い、金沢~東京間を父が払っていた。始発駅の上野駅のホームで、特急「白山」や「能登」に乗り込む私たちを母が見送り、終着駅の金沢駅に到着すると父が待っている、という塩梅だ。
小学生以下の子ども3人なので、車内の周囲の大人が「えらいねえ」と褒めてくれたり、飴やお菓子をくれたり、隣の席のお姉さんと一緒に座席を向かい合わせにして4人でトランプをしたりした。この8時間弱の子どもだけの旅は、緊張感の中にちょっと得意げな気持ちもあり、また一期一会の大人との触れ合いもあって、とても楽しかった。
父は、夏休み、冬休みと、毎回違うお姉さんと一緒だった。彼女たちは最初の2、3日だけ、私たち子どもとも仲良く遊んでくれたり、ご飯をつくってくれたりした。
しかし、事態は変わる。