混乱は、2005年に入るまで続いた(注4)。第二次インティファーダでのパレスチナ人の犠牲者は3000人以上で、多くは一般市民だった。なお、イスラエル側にも兵士を中心に約1000人の犠牲者が出た。
ガザの軍事封鎖は
なぜ起こったのか
2006年1月、ガザと西岸の両方で、パレスチナ自治政府の総選挙がおこなわれた(注5)。世界はこれまで政権をにぎっていたファタハが勝つと思っていた。その予想に反して、半分以上の議席をとったのはハマスだった。ハマス自身も予想しない勝利だった。
背景には、自治政府の中心だったファタハへの批判があった。自治政府がオスロ合意を結んでから、くらしはよくならなかった。また、ファタハの幹部たちの間で汚職が広がっていたことへの批判もあった。ハマスは、とくにガザでの支持が強かった。
オスロ合意では、難民問題の解決を先送りして、パレスチナ国家をつくることを優先した。でも、難民出身者の多いガザの人々は、「置き去りにされた」と感じていた。
(注4)第二次インティファーダのなか、2004年11月に、長年パレスチナ社会のリーダーを務めたアラファト大統領が死亡した。2005年1月には、その後継者として、同じファタハからマフムード・アッバースが選ばれ、大統領となった
(注5)パレスチナで選挙がおこなわれる前年(2005年)、当時イスラエルの首相であったシャロンは、ガザにある入植地をなくすと決めて、入植者の反対を無視して強制的に入植地を撤去していた。それはパレスチナ人のためではない。ガザの入植者を守るために、イスラエルは軍を派遣していた。武装勢力との戦闘で、犠牲も出ていた。シャロンはその人的被害や経済的負担を減らそうと考えた。また、ガザにイスラエル人がいないほうが、包囲して攻撃しやすくなる。実際、その2年後にガザの完全封鎖が始まり、シャロンのねらいどおりになった
これに対してハマスは「難民が故郷に帰るまでイスラエルと戦う」と宣言していたので、支持が高まっていた。しかし、武力で戦う方針をとったことで、ハマスはイスラエルだけでなく、アメリカやヨーロッパの国々からも「テロ組織」と指定されていた。