
イスラエルの首都・テルアビブから、ガザやヨルダン川西岸地区までは、車で1時間と近い距離にある。しかし、イスラエルで暮らすユダヤ人たちには、あらゆる人道的危機に苦しみ続けるパレスチナの人々の声は全く届かない。なぜ、イスラエルの人々の胸は痛まないのか。その背景には、ユダヤ人が先祖代々から伝えられた「強い被害者意識」があった――。※本稿は、高橋真樹『もしも君の町がガザだったら』(ポプラ社)の一部を抜粋・編集したものです。
たとえ話:
「もしも君の町がイスラエルだったら?」
君は高校2年生。両親と、お姉さん(大学生)、妹(中学生)の5人家族だ。猫も1匹いる。お父さんはIT企業で働くエンジニア、お母さんは看護師の仕事をしている。家族の収入は平均よりも多く、お金に困ることはない。
君が住む町は、海沿いにお店やレストランがならび、ヨットやサーフィンも楽しめるすばらしい場所だ。ただこの町は、近くに住む「テロリスト」にねらわれている。
君が生まれる少し前には、カフェやバス停で「自爆テロ」があった。テロリストは、体に爆弾を巻きつけて、見知らぬ人を殺す。どうやら悪い宗教に洗脳されて、そんなことをするようになってしまったようだ。
でも、君が生まれてからは「自爆テロ」はほとんどなくなった。国が巨大な壁で、テロリストを閉じこめたからだ。そしてテロリストに武器が届かないように、物の出入りも管理してくれている。
でも、町の人々の恐怖がなくなったわけじゃない。こちら側に来られなくなったテロリストは、ロケット弾を開発して町に向けて撃ってくるようになった。そこで、町はあちこちにシェルターをつくった。ロケット弾が落ちても命が守れるように。シェルターは、君の家や学校にもあって、君も何度か逃げたことがある。