第二次インティファーダと
自爆攻撃での抵抗
2000年9月、イスラエルのシャロン(注2)という右派の政治家が、エルサレム旧市街にあるイスラム教の聖地を訪問した。そして「ここはすべてイスラエルのもの」と宣言した。
占領への怒りに加え、「侮辱された」と感じたパレスチナの若者ものたちは投石を始め、イスラエル軍が発砲した。こうして、第二次インティファーダ(2000?2005年)が始まった。シャロンは翌年の選挙で首相となり、はげしい暴力でパレスチナ人を攻撃した。
さらに2001年9月、アメリカではニューヨークとワシントンで、高層ビルに航空機がつっこむ「同時多発テロ事件」が起きた。アメリカのブッシュ政権は「テロとの戦い」を宣言して、アフガニスタンやイラクでの戦争を始めた。
世界で、「テロリストの敵か味方か」という単純な分け方が主流になると、占領下のパレスチナ人による抵抗への共感は広がらなかった。むしろ「テロ対策」を理由に、過激な暴力をふるうイスラエルに、国際社会は沈黙するようになった。
追いつめられたパレスチナ人の暴力もまたエスカレートした。最新兵器で攻撃を続けるイスラエル軍に対し、ハマスなどの組織は、体に爆弾を巻き、イスラエルのバスや町なかでスイッチを押す「自爆攻撃」で抵抗した。それによって、兵士だけでなく一般のイスラエル人にも犠牲者がふえた。
2002年には、イスラエル軍はパレスチナの主要な町に大規模な侵攻作戦をおこなった。市街地を戦車が走り、戦闘ヘリが爆撃をした。インフラや公共施設などは次々と破壊され、多くの一般市民が逮捕 、殺害された(注3)。
(注2)アリエル・シャロン(1928?2014)は、1982年には国防大臣として、当時PLOが拠点を置いていたレバノンに侵攻する作戦を指揮した。武装解除したレバノンのパレスチナ難民キャンプを包囲して、虐殺事件に加担した(サブラ・シャティーラ難民キャンプの虐殺事件)
(注3)2002年4月、西岸地区にあるジェニン難民キャンプでは、イスラエル軍によって女性や子ども、高齢者や障害者をふくむ数百人のパレスチナ人が虐殺される事件が起きた(ジェニンの虐殺)。国連でも問題になり調査団が結成されたが、イスラエル政府は受け入れを拒否し、被害の実態はうやむやにされた