ニュースな本写真はイメージです Photo:PIXTA

noteの記事をきっかけに注目を集め、新進気鋭の文筆家として活躍する伊藤亜和氏。セネガル人ハーフの彼女は、アイデンティティに悩みながらも日本語を愛し、誰よりも言葉を丁寧に扱ってきた。そんな彼女の心を大きく揺さぶった、タクシー運転手の一言とは?※本稿は、伊藤亜和『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。

極端な「日本らしさ」に
執着する理由

 はじめて名刺を持つにあたって、肩書きはどうしようかと考えなければならなかった。

 作家、と名乗るのはおこがましい。エッセイストというのも、今後エッセイ以外も書くかもしれないし、コラムニストというと、自分のなかではなんだか明快にズバズバと書いていくようなイメージがあって、グズグズした私の文章はそれではないと思った。

 今のところ、起きたことを文字にして残していっているのだから、記録係というのはどうだろう?いや、斜に構えすぎか。書記、書き手、洒落臭いな。シャワーで頭を洗いながら考えて、髪を乾かし終わる頃、文筆家、とすることにした。

 私としてはなかなかそつがない肩書きに落ち着いたと満足していたのだが、いざ名刺を配り始めてみると、受け取った何人かが「文筆家」を「文豪家」と読み違えて、私は自称文豪の思い上がりも甚だしい女になってしまったのだった。

「ハーフが極端な『日本らしさ』に執着してしまうのはそう珍しいことではない」という話を聞いたのはごく最近のことである。それを聞いた私は、自分の重要なアイデンティティの一部が雷に打たれて崩れ落ちるような感覚を覚えた。そんな風変わりな人間は、この世界に私だけだろう、と思っていたからだ。