大腸がんの手術を終え、職場復帰を果たした51歳男性を待っていたのは、さらなる苦難の日々だった。そんな彼が絶望の淵で「がん哲学外来」と出会ったことで、ついに、がんよりもつらい「孤独」を癒やす光を見つけた。本稿は、樋野興夫『もしも突然、がんを告知されたとしたら。』(東洋経済新報社)の一部を抜粋・編集したものです。
職場復帰も果たしたのに
なぜか自暴自棄な面談者
面談者の名前は森善幸さん、年齢は51歳、妻と大学生の息子がいて、工作機械メーカーの設計部門で課長職を務めている。5カ月前に大腸がんが見つかるが、まだステージIで、主治医に勧められるまますぐに切除手術を受け、その後の治療も順調で特に問題はなく、先月から職場に復帰した。「がん哲学外来」のことは、手術を受けた病院の腫瘍内科の医者から聞いたのだという。
ここまで話が進んだ後、しばらく沈黙が続いた。先生はゆっくりとコーヒーをすすり、先を促すでもなく、のんびりとした表情をしている。
一方、その向かいに座る森さんは、テーブルの上のアメリカンコーヒーに全く手を伸ばさない。部屋に入ってきてからずっとどこか気の抜けた様子で、左端がやや下方に曲がって固まった口は、ポカンと薄く開いたままだった。
その口が、唐突に動く。
「仕事ができない」
先生が柔らかく視線を向ける。森さんの口がまた動いた。
「する気になれない。そう言ってしまえば、すべてが終わるんだろうが……」
おそらく独り言である。無気力な様子とは裏腹に、この顔はどこか陰険な印象である。
「仕事ができないことを困っているの?」
ふいに先生が尋ねた。森さんがはっとしたように顔を上げる。
「え、そう。あ、いや……」
相手が何を考えているのか推し量ろうとするように眉根を寄せて、視線をまた落とす。
と、唇の右端だけが、また、ひん曲げられたように上がった。
「困っているというより、むしろ逆」
森さんが睨みつけるように先生を見上げる。かなり感じが悪い。
だが、先生は平気な様子で面談者に尋ねた。
「逆、というと?」
「別に仕事がどうなろうが、どうでもいいとしか思えない。分かる?」
「ああ、全然困っていないから、逆ということね」
「そうじゃない。やっぱり、分からないんだ。そりゃそうか、あの会社で俺がどんな立場だったのか知らない人間に、この気持ちが分かるわけない」
「確かに分からないね。どういうこと?」
「聞きたい?」
「うん、聞きたい」
仕方がないな、という顔で話し始めたのは、彼にまつわる社内での噂話だった。