「いまより幸せな人生を送りたいのなら、ヘロイン、コカイン、覚醒剤を使いなさい」といわれたら、「頭がおかしいのではないか」と思うだろう。だがこれを大真面目に主張するのは、コロンビア大学心理学部・精神医学部教授で、数少ない黒人の薬物依存症専門家としてメディアなどで積極的に発言しているカール・L・ハートだ。『薬物戦争の終焉 自律した大人のための薬物論』(松本俊彦監修、片山宗紀訳/みすず書房)はそのハートが、自らドラッグ(ヘロイン)を娯楽目的で使用していることを告白して話題になった。
ほとんどのひとはこの「ドラッグのすすめ」を一笑にふすだろうし、いい加減なことをいうなと怒り出すひともいるかもしれないが、そんなことはない。本書の監修・解題が日本における薬物依存症の第一人者である松本俊彦氏(国立精神・神経医療センター精神保健研究所薬物依存研究部長)であるように、「違法な薬物にもよい効果がある」ことは(すべてとはいえなくても)多くの専門家が同意するだろう。松本氏が強調するように、国家が薬物を恣意的に合法・非合法に分け、なんの合理性もない規制をしていることが、さまざまな社会問題を引き起こしているのだ。

本書の原題は“Drug Use for Grown-ups; Chasing liberty in the Land of Fear(自立した大人のためのドラッグの使い方 恐怖の大地で自由を追い求める)”だが、違法薬物(ドラッグ)がきびしく規制されている日本ではさすがにこのタイトルは無理があり、翻訳では副題(「自律した大人のための薬物論」)になっている。
ハートは「自立した大人(Grown-ups)」を「専門性をもって社会的責任を果たし、幸福な生活を実現するために薬物を使用している人たち」と定義している。ここからわかるように、彼の主張は若干トリッキーではある。
ハートは、「大麻やMDMA(エクスタシー)のようなソフトドラッグだけでなく、ヘロイン、コカイン、覚醒剤のようなハードドラッグも、自律した大人が正しく使えば依存症にならないばかりか、QOL(Quality of Life:人生の質)を大きく上げることができる」と述べる。これを逆にいえば、依存症のような問題が起きるのは、その使用者が「自立した大人」ではなく、薬物を正しく使っていないからなのだ。
このロジックなら、薬物乱用者の悲惨な状況をどれほど突きつけても、「それはGrown-upsでないからだ」のひと言で反論できる。さらに強力な盾はハートが黒人で、薬物戦争で多くの黒人が逮捕・収監されていることを、アメリカ社会を揺るがしている「構造的人種差別」の典型だと主張していることだ。これによってハートを批判する者(とりわけ白人の学者)は、人種差別を擁護する「レイシスト」のレッテルを貼られることを恐れなくてはならなくなった。
このことを押さえたうえで、ハートの過激で、しかしかなりの説得力がある主張を見ていこう。
「薬物の有害性に関するスコア」でアルコールよりもリスクの低い薬物は?
誰もが知っているように、医薬品には病気を治す効果もあれば、健康を害する副作用もある。医師はそれを考慮して、患者にとって副作用のリスクよりも治療効果のリターンが大きい場合にかぎり医薬品を処方する(ことになっている)。
このことは、医薬品以外のすべての薬物にも当てはまる。ニコチンには気分を落ち着かせたり、覚醒度を上げて集中力を高めたりする効果があるが、がんの発症リスクを高めるという副作用がある。アルコールは脳の神経細胞を麻痺させて気分をリラックスさせるが、過度の飲酒は肝機能障害のほか、がんや高血圧、痛風などさまざまな疾患の原因になる。そしてニコチンもアルコールも依存性があり、禁煙や禁酒に苦労しているひとがたくさんにいる。
もちろん薬物依存の専門家であるハートは、このようなことをよく知っている。だが厚生労働省によれば、日本のアルコール依存症の有病率は男性の1.9%、女性の0.1%で、全体で0.9%だ。このジェンダーギャップは飲酒率に大きな差があるからで、飲酒習慣の割合は20歳以上の男性の35.9%、女性の6.4%とされる。ここから概算すると、飲酒習慣のある者のうち、アルコール依存症になるのは男性で5.3%、女性で1.6%になる(女性は男性より飲酒量が少ないのだろう)。
これを逆にいえば、日本では100人のうち95人は「自立した大人」としてお酒と上手につき合っている。「自立していない」5人の依存症者のためにアルコールを違法にする理由はないという社会的合意があるからこそ、一定の範囲で飲酒が認められているのだ。――念のためにいっておくと、これはアルコール依存症が自己責任ということではない。「自立」できない理由には遺伝的脆弱(ぜいじゃく)性や子どもの頃の環境要因など、本人にはどうしようもないものがあるからだ。
しかしそうなると、この同じ論理を合法・非合法を問わずすべての薬物に当てはまることができる。そのなかで薬物使用のリスクがリターンを上回るものを規制すればいいのだ。
2010年にイギリスの精神薬理学の第一人者で、英国精神薬理学会会長などを務めたデイヴィッド・ナットが一流の医学学術誌『ランセット』に「薬物の有害性に関するスコア」を発表したが、それによると自己危害と他者危害を合わせてもっとも有害な薬物はアルコールであり、2位ヘロイン、3位クラックコカイン(喫煙用のコカイン)、4位メタンフェタミン(覚醒剤)、5位コカインにつづいて6位がタバコになっている(大麻は8位)。
この論文で評価された20の薬物のうちエクスタシー(MDMA)は16位、幻覚剤のLSDは18位で、禁止薬物であるにもかかわらず、ほとんど有害性は認められない。そのナットは、「エクスタシーは乗馬より安全」などと論文に書いたことで物議をかもし、薬物乱用諮問委員会の会長を罷免された。
薬物専門家にとっての「不都合な真実」とは、飲酒者本人や社会(飲酒運転による交通事故など)への危険が大きいアルコールを合法にしている以上、それよりもリスクの小さなヘロイン、コカイン、覚醒剤などのハードドラッグを「違法」にする科学的根拠はない、ということなのだ。