生成AIの登場とその驚くべき能力によって、テクノロジーの指数関数的な性能の向上が社会を大きく変えていく未来が実感できるようになった。だとしたら、わたしたちにはどのような選択肢があるのか。そんな興味で手に取ったのが、オードリー・タンとE・グレン・ワイルの『PLURALITY[プルラリティ] 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』(山形浩生訳/鈴木健解説/サイボウズ式ブックス)だ。

わたしたちの未来にはどのような選択肢があるのか?2030年までにはテクノ・リバタリアニズム、テクノクラシー、テクノ・コミュニタリアニズムのいずれになるかの方向性が明らかになるPhoto: 168owl / PIXTA(ピクスタ)

 著者のオードリー・タンは、台湾の初代デジタル省大臣として日本でもよく知られている。グレン・ワイルは気鋭の経済学者で、エリック・A・ポズナーとの共著『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀: 公正な社会への資本主義と民主主義改革』(安田洋祐監訳/遠藤真美訳/東洋経済新報社)では、ゲーム理論を駆使した税制や選挙制度の斬新なビジョンを提示して驚かせた。

 とはいえ、A5判で600ページを超えるこの大著を要約する力量は私にはないので、ここでは私見を交えて本書の背景にある思想について述べてみたい。それをひと言でいうなら、「テクノ・リバタリアンvsテクノ・コミュニタリアン」になる。

 Plurality(プルラリティ)は「多元性」「複数性」を意味し、「特異点」「単一性」を表わすSingularity(シンギュラリティ)に対置される。

 未来学者レイ・カーツワイルは『シンギュラリティはより近く 人類がAIと融合するとき』(高橋則明訳/NHK出版)で、今から20年以内に脳の機能をすべてコンピュータにシミュレートできるようになると主張した。それに対してオードリー・タンは、(シンギュラリティはまだ先だが)プルラリティはいまここにある」という。

 それと同時に「プルラリティ(多元性)」が書名に選ばれたのは、左派によって手垢にまみれ、トランプ政権からのはげしい攻撃にさらされているDiversity(ダイバーシティ:多様性)とのちがいを強調するためでもあるのだろう。

 LGBTQIA+のようにセクシュアリティ(性的指向や性自認)を表わす頭文字はどんどん長くなっていくが、そこでは「異性愛者vs同性愛者」「シスジェンダーvsトランスジェンダー」のようなアイデンティティの対立ばかりが語られている(ように見える)。こうした(アイデンティティの)多様性に対して、多元性には「差異や対立を受け入れつつも、共同体としての調和(コラボレーション)を実現する」という含意がある。

 本書の副題に“The Future of Collaborative Technology and Democracy(コラボラティヴなテクノロジーとデモクラシーの未来)”とあるように、テクノロジーはあくまでもコラボレーション(協力/協働)のためのツールなのだ。なお、本書ではPluralityにユニコードの記号があてられているが、以下「プルラリティ」と表記する。

反社会でも中央集権でもない「第三の道」は、テクノロジーによって多元的で民主的な共同体を再建すること

 右派・伝統主義のコミュニタリアンで、トランプ政権の副大統領JDヴァンスの「ブレーン」ともされるパトリック・J・デニーンは、『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(角敦子訳/原書房)で、ジョン・ロックやJ.S.ミル、アメリカ建国の英雄にまでさかのぼってリベラリズムの「個人中心主義」を批判した。そしてこれは、リベラルなコミュニタリアンであるマイケル・サンデルの主張と瓜二つだ。

【参考記事】
●「リベラリズムは成功したがゆえに失敗した」。欧米で進むリベラルデモクラシーの行き詰まりの原因と今後とは?

 オードリー・タンとグレン・ワイルも、デニーンやサンデルと同じく、リバタリアニズムやリベラリズムの「個人中心主義」を批判し、個人(individual)とテクノロジーの組み合わせが「反社会」と「中央集権」のディストピアを招くと警告する。

 IT(SNSや暗号化技術)は「社会の仕組みを破壊し、人々の意見をますます極端に走らせ、規範を潰し、法執行を無力化し、金融市場の速度と到達範囲を拡大する」。これが引き起こす混沌(カオス)によって、わたしたちはデモクラシー(民主政)が手の届かないところに行ってしまったと思うようになった。これが「反社会」だ。

 その一方で別のIT(機械学習、基盤モデル、IoT)は、ますます中央集権的な監視能力を強化している。「少数のエンジニアたちが、何十億もの市民や顧客の社会生活ルールとなるシステムのパターンを作り上げてしまっているため、人々が自分の生活やコミュニティ形成に、まともに参加できる範囲が狭まっている」のだ。この脅威が「中央集権」だ。

「反社会」を代表するのがテクノ・リバタリアンのピーター・ティールで、自由とデモクラシーは両立しないとする。それに対して「中央集権」を代表するのは加速主義者で、24年の大統領選でドナルド・トランプを支持したベンチャーキャピタリストのマーク・アンドリーセンと、生成AI「ChatGPT」をリリースしたOpenAIのCEOサム・アルトマンがあげられている。こちらは、テクノロジーによって最適な社会制度を設計しようとする「テクノクラート」と呼ばれている。

 だが著者たちは、反社会(テクノ・リバタリアン)にも、中央集権(テクノクラート)にも、人類の未来はないという。わたしたちは、その両極端のあいだの細い道(複雑系科学のいう「カオスの縁」)を慎重に歩んでいくほかないのだ。

 反社会も中央集権も、社会を構成するのが個人=単数(シンギュラリティ)であることを前提にしている。だが、人間は社会のなかに埋め込まれているのだから、共同体のメンバーとしての分人=複数(プルラリティ)で考えなくてはならない。

 反社会でも中央集権でもない「第三の道」とは、テクノロジーによって多元的で民主的な共同体を再建することだ。このようにして、テクノ・リバタリアン(反社会)、テクノクラート(中央集権)、テクノ・コミュニタリアン(第三の道)という3つの選択肢が示された(「テクノ・コミュニタリアン」は私の造語だ)。

 ヒトは徹底的に社会的な動物として進化してきたのだから、左派のマイケル・サンデルや、右派のパトリック・デニーンのようなコミュニタリアンがいうように、わたしたちは共同体から切り離されて人生のゆたかさや幸福を味わうことはできない。これはそのとおりなのだが、これまでコミュニタリアンは、カール・マルクスのような2世紀ちかくも昔の思想家を神聖視するだけで、ポストリベラルの共同体がどのようなものかを示すことはなかった。

 タンとワイル(およびオープンソースでつくられた本書のコミュニテメンバーたち)の最大の貢献は、テクノロジーによっていかにしてコミュニティを創造・創発させるかという具体的なビジョンを提示したことだろう。それだけでも、本書の意義はきわめて大きい。