冬の晴れた日にはストーブの煤煙が黒くたなびき、風のない日は洗濯物を干せないほどであった。明治期の洋館は朽ちて取り壊しが始まり、みやげ用の木彫りの熊はアメリカ人好みにテラテラと塗装されていた。
さらに、当時の札幌は「一夜作りの町」であり、人々には「仮の宿」の精神や「出かせぎ根性」が強かったという。
札幌では津軽海峡の向こう側を指す「内地」という言葉がよく使われ、東京などに本省・本社・本店のあるサラリーマンが多く、骨は「内地のふるさと」に埋めたいという気持ちがあるから、人口のわりに寺が少ない。
札幌の物価が高いのは、「内地」から運んでくる品物が多いからであった。一方、ソ連軍がやってくるかもしれないという危機感は、現地ではかえって薄れていたという。
ここで想起すべきなのは、北海道と沖縄の近代史が、1980年代までに「内国植民地」(国内の植民地)と表現されるようになることである。1869年に「蝦夷地」から改称された北海道は、中央政府の主導の下で開発と防衛が進められ、本州から多くの移民が送り込まれた。
同時に、先住民に対する同化政策や土地の収奪も行われていた。花森が論じていたのは、こうした「植民地」のような時代が終わったあともその影響が残る「ポストコロニアル」の北海道の姿であった。
まだメニューに入っていない
みそ味のラーメンに驚いた
辛口批評家の花森は、1954年に「札幌の名物」としてラーメンを推したが、その理由は消極的なものであった。
花森によれば、札幌で鮭を買うと割高で品質も落ち、東京のほうがよい品が安く手に入る。これは、東京の有力な問屋がいい漁場をおさえ、大量に買いつけているためであった。
昆布も北海道で採れるが、札幌を素通りして大阪へ行き、そこで加工されて「北海道名産」のレッテルがつけられて全国に流通し、札幌でも販売される。
だから、札幌の名物はラーメンということになってしまう。それは、うまいからというよりも、店の数が多く、安上がりで、寒い土地に合っているからだという。
こういう花森安治が大宮守人の三平を訪れたのは、1955年の夏の終わりだった。花森は、自らが創刊した生活雑誌『暮しの手帖』で、大宮の醤油ラーメンの作り方を詳細に紹介し、「札幌のラーメン」を広く知らしめた。