
第2次世界大戦後、札幌ラーメンの始まりは醤油味だったが、「味の三平」初代店主のひらめきにより、「みそラーメン」が札幌ラーメンの主流となっていく。だが、それがご当地の名物として全国的に認知されていく過程は、「内地」たる本州と、「植民地」とも揶揄される北海道における、力関係の縮図だった。※本稿は、岩間一弘『中華料理と日本人 帝国主義から懐かしの味への100年史』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
戦後札幌のラーメン店第1号は
醤油ラーメンの屋台だった
札幌のラーメンの歴史は、1920年から語り始められる。この年、コックの王文彩がシベリアに出兵中の日本軍とソビエト・パルチザンのあいだの紛争(尼港事件)から逃れて、樺太経由で札幌にやってきた。
その後、北海道大学の正門前の「竹家」では、王文彩の作る「肉絲麺」(ロースーメン)が大評判になった。しかし、客たちがそれを「チャンそば」「チャン料理」と、中国人を侮蔑する名称で呼んだ。そのため、1922年頃、店主の大久昌治と大久タツが「柳麺」と改名し、「ラーメン」と呼んだという。
しかし、札幌でラーメンが広まったのは、第2次世界大戦後からである。そして札幌では、中国大陸からの引揚者たちがラーメンの普及に大きく貢献している。1946年末、天津から引き揚げてきた松田勘七が開業した屋台が、戦後札幌のラーメン店第1号とされている。
松田は天津で土木請負業をしていたが、日本人が中国の料理にも醤油を使いたがっていたのをヒントにして、屋台で醤油味のラーメンを提供した。
1948年には、引揚者援護協会の請願が受け入れられ、引揚者が札幌市内の一角で屋台を出すことが許された。