シウマイ写真はイメージです Photo:PIXTA

横浜市民のシュウマイへの支出額は、2023年でも全国平均の約2.4倍という。1922年に「元祖・横浜シウマイ」を大ヒットさせた中国の料理人・鮑博公は、最初は日本人のシュウマイの食べ方にカルチャーショックを受けていた。なぜ、この地にシュウマイが根づいたのか?横浜のソウルフードの歴史をたどる。※本稿は、岩間一弘『中華料理と日本人 帝国主義から懐かしの味への100年史』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

1895年に「シュウマイ」が
日本の文献に登場

 中国におけるシュウマイは、歴史的には「焼売」「焼麦」「稍麦」「稍梅」「紗帽」「寿邁」といったさまざまな呼び方がある。作り方も餃子やワンタンと似ているため、その起源を特定するのは難しい。

「焼売」という言葉は、宋・元時代(960~1368年)に成立したと考えられる「平話」(語り物)の『快嘴李翠蓮』に初めて登場したとされる。この物語では、李翠蓮という人物が「焼売や扁食〔餃子〕の何が難しいか、三湯両割〔料理〕ならば私もできる」と語っている。

 日本では、1895年に大橋又太郎が、東京・日本橋の偕楽園の探訪記を記している。その献立には、点心として「焼売」と「紫菜湯」(海苔スープ)がある。これは日本の文献に登場するシュウマイの最初期の一例である。

 偕楽園は、中華料理を通じた日中親善のためのクラブとして、渋沢栄一などの財閥創始者が出資して創業された。その後、長崎出身の有力者の支援を受けて、1885年に笹沼源吾が経営を引き受け、料亭として再出発した。

 偕楽園は最初に「支那弁当」(中華弁当)を提供した店で、1890年に第1回帝国議会が召集されたときも、議員用の食堂に納めていた。