スマホやSNSが社会やわたしたちの生活に与える悪影響が大きな問題になっている。イギリスのジャーナリスト、ヨハン・ハリの『奪われた集中力 もう一度〝じっくり〟考えるための方法』(福井昌子訳/作品社)は、「これまでのように仕事に集中できなくなった」「子どもが勉強に集中できない」などの不満や不安を背景にベストセラーになった。

 本書はハリが、3カ月のあいだネットから完全に離れることを決意し、インターネットに接続できない古いノートパソコンと、緊急事態用のネットに接続できないスマホ(家電量販店では入手できず、ネットで超高齢者向けに設計され、緊急医療機器としても使えるようになっているジターバグと呼ばれる携帯電話を購入した)だけを携えて、アメリカ北東部マサチューセッツ州ケープコッドの先端にある避暑地プロビンスタウンに向かうところから始まる。この最果ての街(とはいえ、プロビンスタウンは芸術の街としても知られるリゾートで、夏には多くの観光客が訪れる)で「奪われた集中力」を取り戻そうというのだ。

スマホやSNSによる集中力の欠如問題や加速する社会に対応するための解決策から「残酷な楽観主義」を考察する本文と写真は関係ありません。Photo/muu / PIXTA(ピクスタ)

 とはいえ、こうしたデジタル・デトックスの試みは多数行なわれているし、スマホやSNSへの批判は世の中にあふれている。ハリが専門家への膨大な取材によってどのような結論に至ったかは本を読んでいただくとして、ここでは本書で紹介された「残酷な楽観主義」について考えてみたい。原題は“Stolen Focus; Why You Can’t Pay Attention and How to Think Deeply Again(盗まれたフォーカス なぜあなたは注意を払えないのか? どうすればもういちど深く考えられるのか?)”。

「加速する社会に対応するためにますます加速せざるを得ない」

 ハリは、「注意力を病ませる文化」が深刻な社会問題を引き起こしているという。研究者によれば、集中している時に邪魔されると、同じ集中状態に戻るまでに平均23分かかる。「この注意散漫が一人ひとりの問題であるだけでなく、社会全体に危機をもたらしている」のだ。

 平均的な米国人は1日に3時間15分、2617回スマホをいじっている。テスト中にスマホでメッセージを受け取った学生たちは、スマホの電源を切った学生に比べて20%成績が悪かった。13歳から17歳までの平均的な米国人の子どもは、起きている時間の6分ごとにテキストメッセージを1通送っている。

 アメリカ人の57%は1年間で本を1冊も読まず、平均すれば読書に1日17分、スマホに5.4時間費やしている。これは日本も同じで、文化庁の調査では1カ月に1冊も本を読まない大人は62.6%もいる。

 こうしたトレンドは明らかに加速しており、わたしたちは「速くバズる」し、「速く落ちる」世界に放り込まれてしまった。

 だがここで押さえておかなくてはならないのは、時間が「加速」するのはスマホやSNSなど近年のテクノロジーが原因というわけではなく、「130年以上もの間、それぞれの10年間で、話題が現れては消えていく速度はどんどん速まっていた」ことだ。

 ドイツの社会学者ハルトムート・ローザは大著『加速する社会 近代における時間構造の変容』(出口剛司監訳/福村出版)において、前近代の農耕社会における循環的(周期的)時間が、産業革命以降、過去から未来へと延びる直線的時間に変わり、それによって「加速」が引き起こされたと論じている。さらに後期近代になると、「加速」がさらに強まったことで直線的な時間が解体し、人生のさまざまな局面における時間が同期しなくなり、社会全体が断片化した。これによって、仕事や結婚のような一人ひとりの人生(ライフコース)のなかでも構造的・文化的な変動が起き、わたしたちは安定したアイデンティティをもつことが難しくなってしまったのだ。

 ローザによると、時間の加速には3つの異なる次元がある。「技術的加速」は輸送(蒸気機関からジェット機まで)やコミュニケーション(電信・電話からネットへ)など、テクノロジーのイノベーションによって作業時間が短縮されることで、それにともなって社会や組織の構造が変わる「社会変動の加速」が起きる。2つめの「生活テンポの加速」は、生活のなかで得られる体験(行為エピソードと体験エピソード)の量が急激に増えることで、主観的には3つめの「時間資源の欠乏」として感じられる。

 この3つの次元がそれぞれに影響を与えあうことで、技術的には時間を節約しているはずなのに、主観的にはいつも時間に追われている「時間経験のパラドクス」が生じるのだ。

 このように考えれば、わたしたちは近代の産業革命で始まった「加速する社会」の最終局面にいることになる。いまや誰もが、「子どもたちの状況が自分たちよりも悪くならないために、自分たちが達成したことを維持するために、できる限りのことをしなければならない。まさにそのために、年を追うごとに速く走らなければならない」(ローザ、前掲書「日本語版への序文」)と感じている。「加速する社会に対応するためにますます加速せざるを得ない」というのが、すべのひとに強いられた運命なのだ。