量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
近日発売の『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。受賞者とも交流がある藤井氏が、2025年のノーベル物理学賞が「量子力学」の研究成果に贈られたことを記念して、特別に寄稿した

【全人類が大注目! 2025年ノーベル物理学賞】量子コンピュータが世界を変える→実現のための“究極の鍵”となる「巨視的トンネル効果」とは?Photo: Adobe Stock

「量子の年」のノーベル物理学賞

今年2025年は、量子力学誕生からちょうど100年を迎える節目の年であり、国連が「国際量子科学技術年(International Year of Quantum)」に制定した「量子の年」である。
世界各地で記念イベントが開催されるなか、ノーベル物理学賞は、純国産量子コンピュータの基盤技術にもつながる「電気回路における巨視的トンネル効果とエネルギーの量子化の発見」に対して、アメリカのジョン・クラークミシェル・デヴォレージョン・マルチネスの3氏に授与された。

量子力学は、原子や電子といった目に見えない「ミクロな世界」を支配する物理法則である。
その端緒は1913年、ニールス・ボーアが水素原子のスペクトルを説明するために導入した「量子化条件」にさかのぼる。

電子のエネルギーは連続的ではなく、特定の値しか取れないというもので、炎色反応で原子ごとに異なる色の光を放つのもこの量子化の結果である。

では、この「量子化」はミクロな世界に限られる現象なのだろうか。
量子力学が自然界を支配する根本法則であるならば、より大きな「巨視的」な対象でも量子的な現象が起きるのではないか

こうした問いに挑んだのが、米カリフォルニア大学バークレー校のクラーク教授とその研究室に所属していたデヴォレー、マルチネスであった。

量子化の謎

彼らは、抵抗なく電流が流れる「超伝導体」で構成された電気回路に着目した。
超伝導体内では電子がペア(クーパー対)を形成し、巨大な波のように集団運動するため、電気抵抗が消える。

このような回路でも量子化が生じるのかを探った結果、クラークらは「エネルギーの量子化」が電気回路でも観測できることを実験的に示した。
すなわち、肉眼で見えるサイズの電気回路に流れる電流にも量子的なふるまいが直接的に現れることを証明したのである。
ただし、この段階では現象を観測できたにすぎず、そのような対象を量子的に制御できたわけではなかった。

それから14年後の1999年、NECの中村泰信と蔡兆申が、電気回路内で2つの異なる状態を量子的に重ね合わせた「超伝導量子ビット」を実現した
これをきっかけに、超伝導における巨視的量子現象を探求していた研究者たちは量子コンピュータ研究へと乗り出した。
純粋な基礎研究が、量子コンピュータという究極の応用へとつながった瞬間である。

ノーベル賞受賞者が語った「最大の障壁」

受賞者の一人マルチネスは、1980年代に量子コンピュータを提唱したリチャード・ファインマンの講演を聞いた際、「何を言っているのか全くわからなかった」と語っている。

その彼が後に超伝導量子コンピュータ研究を牽引し、2014年には研究グループごとGoogleに移籍して本格的な開発を始めた。

私も彼が国際会議で来日した際、大阪大学での研究会を開催した。
京都から大阪への移動中、私は彼に「量子コンピュータ実現の最大の障壁は何か」と尋ねた。
マルチネスは、「量子に魅せられたギークを数十人集めることだ。私はそのチームをつくろうとしている」と答えた。
その翌週、Googleが量子コンピュータ開発チームの立ち上げを発表したのだった。

未来を変えるコンピュータ

現在、マルチネスはGoogleを離れ、Qolabを起業して活動を続けている。
一方、Googleにはデヴォレーが加わり、研究の系譜は引き継がれている。

量子コンピュータはまだ発展途上であり、ChatGPTのように世界を一変させる段階には至っていない。
しかし、AIの爆発的進化によって計算資源の需要は増大し、既存のコンピュータの限界が見えつつある

量子コンピュータが社会に広く普及する日、超伝導量子ビットの実現がその源流としてノーベル賞の栄誉を受けることを期待したい。

(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者による書き下ろしです。)