森田が、大平の指示で代わりに書いていた当時の日記の中身を話している。

「10月26日、東郷(文彦外務事務)次官が核問題について協議するため、朝自宅に来訪した。10月30日、ホテルオークラで外務省幹部と核問題について打ち合わせをした。総理はこの問題を処理して退陣する意向を固めているようだ。11月2日、9時過ぎより安川(壮)駐米大使と昼まで会議をした」

 田中は1974年12月に金脈問題で退陣したが、核兵器「持ち込み」問題を「処理」することはなかった。

 この件について森田は「田中総理は再登板することが念頭にあったため、(処理を)決意していなかったと思う」と述べている。

周囲の強い反対もあり
真実を語れぬまま急逝した

 そして話は大平内閣期へ進む。1980年4月、首相官邸の執務室に大平、官房長官伊東正義、官房副長官加藤紘一、森田が集まった時の話を、森田は振り返る。

「ふと大平総理から『例の核問題について国民に分かってもらえる良い方法はないだろうか』との発言があった。自分は、40日抗争の後でもあり、三木総理、福田総理が嘘をついていたことを大平総理が明らかにすれば三木派、大平派が激昂するだろうと思い、一番強く反対した。伊東官房長官も加藤官房副長官も無理だろうと反対したところ、大平総理は『難しい問題だから君らに聞いたんだ』と憮然としていた」

「40日抗争」とは、自民党史上で最も激しかったと言われる1979年の派閥抗争だ。大平が首相として臨んだ10月の衆院選で自民党が不調だったため、前首相の福田赳夫は元首相の三木武夫らと連携して退陣を要求。11月の首相指名選挙では自民党の票が大平と福田に割れ、大平が辛勝という異例の事態となった。

 森田が語る首相執務室の場面は、40日抗争翌年の通常国会の終盤だ。核兵器「持ち込み」問題を田中、三木、福田の各内閣が「処理」せずに大平内閣に至ったことを知る森田は、大平がこの問題を国民に明かせば福田や三木への当てつけと取られて派閥抗争が再燃すると危ぶみ、思いとどまるよう訴えたのだった。

「その後、(大平は)本件について話すことはなかった」と森田。大平もこの問題を「処理」できなかったが、それでも派閥抗争は再燃した。

 通常国会会期末の1980年5月、社会党が出した内閣不信任案が福田派などの欠席で可決され、大平は衆院を解散。史上初の衆参ダブルとなった選挙戦のさなかに大平は急逝した。