だが、外務省の公開文書に戻ると、外務省は大平・ライシャワー会談後に対応を協議し、日本政府の立場を変えないことにしたとある。
省内で1960年の安保条約改定に至る交渉記録を調べたところ、「核兵器の持ち込みに関するintroductionの意味についての別段の合意もない」、また政府の国会答弁は「核弾頭の持ち込みはいかなる場合にも、どんな短い期間でも事前協議の対象となる旨の立場で一貫されている」という理由からだった。
核問題を背負い続けた
大平の孤独
日米の解釈のズレに気づき、しかもそのままになってしまったことに大平は悩んだ。それは首相在任中の1980年に心筋梗塞で急死するまで続いた。
その葛藤を側近が語った内容を記した文書を、筆者は2023年に入手した。
大蔵官僚として大平の後輩で、外相や首相の秘書官を務めた森田一が2009年、外務省の下で密約調査にあたった有識者委員会のインタビューに応じた記録だ。
委員会が翌年に出した報告書にはインタビューをした13人のリストがあるが、中身はほとんど記されていない。そこで筆者が23年に外務省に対し情報公開法に基づく文書開示請求をして、森田の分を含む大半が開示されたのだった。
衆院議員を引退していた森田へのインタビューは2009年12月26日、自宅で行われた。外務省が「極秘 無期限」扱いにしていた記録によると、森田は1963年4月の大平・ライシャワー会談には同席しなかったとしつつ、こんな話をしている。
「(池田内閣の大平)外相の時は3、4カ月に1回2人で会っていた。大平は会談後は内容を私に話す癖があったが、このライシャワー大使との会談後は何も語らなかった。大平は土日にゴルフのため移動する間(車中で)考え事をすることが多かったが、会談後に一言『イントロダクション』とつぶやいた。大平は1人で背負いすぎていた」
森田へのインタビュー記録ではその次に、大平が田中角栄内閣の外相だった頃の話が出てくる。
1974年9月、米軍艦船は核兵器を積んだまま日本に寄港していると退役海軍少将ラロックが米議会で発言し、日本政府を揺るがした「ラロック発言」への対応だ。







