何かと思って彼女のあとについてバックステージに行く。彼女は私の目を見据えてこう言った。

「難しい顔をしていますよ。笑顔を心がけてください」

 掃除に夢中になりすぎて、笑顔を忘れていた。ただ、下松さんの言い方がちょっと強かったので、思わず抗弁してしまった。

「そう言われても、何もないときに笑顔でいることなんてできないですよ」

 すると、親子ほどの年齢差があるにもかかわらず、彼女は毅然と言った。

東京ディズニーのスタッフが明かす、「笑ってなくても笑顔に見える」たった1つのコツ笠原一郎『ディズニーキャストざわざわ日記』(三五館シンシャ)

「意識して口角をあげるようにしてください。もしも笑顔ができないのなら、別の仕事に替わってもらいます」

 この仕事を始めてまだ2カ月しか経っていない。好きで応募したのにこんなところでカストーディアルキャスト失格*の烙印を押されるわけにはいかない。

 それ以来、私は無理に笑顔を作るのではなく、とにかく口角をあげることを意識した。無理に笑おうとするからぎこちなくなるのであって、口角をあげるだけなら、自然にできる。

 はじめは作業に没頭しているときには忘れて、はっと気づくこともよくあった。それでも口角をあげるという意識はだんだんと身についていき、次第に、つねに口角をあげた状態で業務ができるようになっていた。「形から入る」こともひとつの良い方法だった。

 注意されてから半年ほど経ったころ、バックステージで下松さんに声をかけられた。

「笑顔が板についてきましたね」

 やさしい笑顔だった。

 彼女はその後、SVからこれまでにない異例のスピードで本社スタッフ部門へと順調に昇進*していった。

キャスト失格
ディズニールックに反した髪形などの規約違反をたびたび繰り返して、実際に契約解除になったキャストもいた。
順調に昇進
下松さんは、女性社員のキャリアパスのモデルケースとして扱われていたようだった。